2005年08月03日

酷似している鉄木真と義経の戦法(EJ1647号)

 源義経が果たして成吉思汗に結びつくかどうか――蒙古側から
の検証をしています。
 テムジンがナイマンを攻撃する準備として最初にやったのは、
部族長会議を開き、軍律を改めて厳格させたことです。部族とし
て「決めたことは守る」ことを徹底化させたわけです。これは、
全ての戦利品は後で公平に分配することにし、全軍が一丸となっ
て敵に当たれるような体制にしたことを意味します。
 続いてやったことは、軍事組織を整えたことです。すべての指
揮官はテムジンが任命することとし、指揮官を兵10人に1人、
100人に1人、1000人に1人任命したのです。それぞれ、
十人長、百人長、千人長というようにしたのです。10進法の軍
隊組織です。
 テムジンはこの指揮官の任命をすべて自分の手で行っているの
です。これによってテムジンは、モンゴル軍全体を完全に掌握し
てしまったのです。この10進法の軍隊組織は、誰にも非常に分
かりやすく、コントロールしやすいのです。テムジンは成吉思汗
になってからも、この軍隊組織を継続して採用しています。
 そして、テムジンは、1204年春にナイマン部族攻撃に踏み
切っています。これまでのモンゴル高原における部族間の戦いは
秋に行われるのが常識とされていたのです。なぜかというと、戦
闘の機動力である馬が夏草を食べて十分体力がついた時期が秋で
あるからです。春は馬が痩せているのです。
 ナイマン王のタヤンカンは、テムジンがいずれ攻めてくること
は分かっていたのですが、まさか春に攻めてくることは予想して
いなかったのです。テムジンはまさにその虚を衝いたのです。戦
争のための十分な備えのできていないナイマン軍は、統制がとれ
ないままモンゴル軍を迎え撃つことになります。
 モンゴル高原での戦いでは馬が不可欠です。そのためナイマン
との戦いのように遠征になると、兵士はそれぞれ替え馬を連れて
戦場に赴いたのです。その数は文献によってさまざまですが、1
兵士当たり平均5頭程度といわれます。このように馬だけでも大
変な数になってしまうわけです。
 ナイマン軍には、その替え馬の準備が整わないまま戦闘に入っ
たので、たちまち馬は疲弊してしまいます。それに対してモンゴ
ル軍は、次々と馬を替えながら、繰り返し波状的に攻撃をするの
で、ナイマン軍はあっという間に追い詰められたのです。
 テムジンはモンゴル軍をナイマン軍からよく見える丘陵に展開
し、ここでひとつの仕掛けを行ったのです。夜間に兵士一人ひと
りに5ヶ所ずつの篝火をたかせたのです。そのときのモンゴル軍
は約5千人と考えられるので、2万5千の篝火が一斉にたかれた
ことになります。
 これを見せられたナイマン軍はあまりの大軍に仰天します。そ
して一部の部族は戦線から次々と離脱をはじめたのです。それを
モンゴル軍の先鋒である4狗――ジュベ、クビライ、ジェルメ、
スプタイ率いる軍隊が追撃したのです。そして、オルホン河東岸
にあるナク崖(現在のラク山)にナイマン軍を追い詰め、激戦の
末、ナイマン軍を破ったのです。1204年夏のことです。
 この攻め方は、義経による一の谷の戦いに酷似しています。一
の谷の戦いというと、ひよどり越えの坂落としがあまりにも有名
ですが、これが成功したのは、その前夜に三原山に陣取る平家勢
を義経が策略を用いて蹴散らしたことにあるのです。
 義経は三原山麓の集落の人々をひそかに退去させ、夜になるの
を待って、火矢を放って無人となった集落に火をつけ、いくつも
の鉦や太鼓を鳴らして、「おう!おう!」と大声を上げさせたの
です。このときの義経軍の兵力は約3千人――その何倍かの兵力
に見せかけたのです。
 闇から迫る、炎、鉦、太鼓――てっきり源氏の大軍が攻めてき
たと思った平氏軍は大混乱をきたし、戦闘を交えぬままその夜の
うちに逃走してしまったのです。こうして、ひよどり越えの坂落
としが行われたのです。
 策略を用いて実際の兵力を何倍かの大軍に見せかける――こう
いう戦法を義経は得意としたのです。彼は屋島の戦いでも同じよ
うなことをやっています。
 暴風雨をついて阿波(徳島)勝浦に上陸した義経軍150騎は
起伏の激しい道程を丸一日かけて馬で踏破し、海上からの襲撃に
備えている平氏軍の背後から襲ったのです。しかし、このとき義
経軍はわずかに150騎であり、大軍を擁している平氏には勝て
ない――こう考えた義経は、屋島の周辺の村から極秘のうちに牛
を集め、そこに火を放ったのです。
 驚いた牛は一斉に走り出したのです。義経軍はそれを機に出撃
したのです。そのざわめきを源氏の大軍と勘違いした平氏軍は、
われ先に海上に停泊させていた船に逃げ込んだため、義経軍は少
ない人数で平氏軍に圧勝しているのです。テムジンの戦法は、こ
の義経のそれと酷似しているといえます。
 さて、勢いに乗ったテムジン率いるモンゴル軍は、ナイマンの
本拠のあったアルタイ山麓を攻撃して平定し、秋になるとセレン
ゲ谷のメルキト部族を攻撃して滅ぼしています。1205年には
逃げたメルキトの首領トクトアを追ってイルティシュ河を攻め、
遂にモンゴル高原において、テムジン率いるモンゴル軍にとって
敵はなくなってしまったのです。
 このナイマンとの戦いで捕虜にしたのがタタトンガなのです。
テムジンは征服した部族の中で、学者や職人など特殊技能を持つ
人物を非常に大事に扱い、国づくりに役立てています。テムジン
はタタトンガがウイグル文字に精通していることをよく知ってお
り、彼にモンゴル文字を創らせているのです。
 それまでモンゴル人は文字を持たなかったし、その必要性を感
じていなかったのです。テムジンは中央アジアに住むウイグル族
が使っていた古代文字を基礎にして、タタトンガにモンゴル文字
を考案させたのです。この「文字を書く」ということこそ、成吉
思汗が遺した最大の遺産といえます。  ・・・・・[義経17]


≪画像および関連情報≫
 ・白石典之新潟大学人文文学部助教授は、テムジンの侵略ルー
  トは、敗走者を追ったというよりも、鉱山確保の意味があっ
  たのではないかと推測している。アルタイ山脈、セレンゲ谷
  はいずれも鉄や銅などの鉱山のある場所である。
  図は、白石典之著、『チンギス=カンの考古学』より。同成
  社刊。

1647号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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