2005年08月02日

テムジンの四駿四狗(EJ1646号)

 テムジンの戦いに関する記録(伝記)を読んでいると、テムジ
ンには信頼できる3人の武将がいたというのです。
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           1.ジャムカ
           2.ムカリ
           3.ボオルチェ
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 テムジンとジャムカは宿命のライバルといわれています。テム
ジンとジャムカの部隊は一緒に宿営し、味方として共に戦うこと
を長く繰り返してきたのです。
 しかし、だんだん意見が合わなくなり、ある夜、テムジンは手
勢を連れて、ジャムカの陣営をひそかに去るのです。しかし、次
の朝、テムジン部隊が見たものは、あとに付いてくるかなりの数
の男たちだったのです。
 それは、ジャムカの部隊の兵士たちがテムジンを慕って付いて
きたのです。彼らは、ジャムカとテムジンを比較し、その人物の
違いを見抜いたのです。これにより、テムジンの部隊は労せずし
て、一挙にふくれ上がることになったのです。
 この経験を通じてテムジンは非常に重要な教訓を学ぶことにな
るのです。『モンゴル帝国の戦い』の著者であるロバート・マー
シャルは、この教訓について次のように記述しています。
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 旧来の族長への忠誠心はつねに条件づきであり、信頼できるも
 のではなかった。『秘史』によると、若きチンギス・ハンの人
 生形成においてもっとも重要だったのは、父の死後、家族が父
 の配下に見捨てられてしまった時期の経験だった。独力で生き
 る道を開拓しなければならなくなったチンギス・ハンが学んだ
 のは、唯一信頼できる支持勢力は彼の個人的資質への心酔者の
 なかから生まれる、ということだった。チンギス・ハンの軍事
 支配の、またその結果としての権力のバックボーンになったの
 は、この一団だった。
    ――ロバート・マーシャル著/遠藤利国訳/東洋書林刊
      『モンゴル帝国の戦い/騎馬民族の世界制覇』より
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 ムカリとボオルチェについてはどうでしょうか。
 成吉思汗を支える側近には「四駿四狗」といわれています。四
駿四狗は次の通りです。
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    ≪四駿≫ ――― 側近中の側近
     ムカリ ・・・・・・・ ジャライル族
     ボオルチェ ・・・・・  アルラト族
     ボロクル ・・・・・・  フウシン族
     チラウン ・・・・・・  スルドス族
    ≪四狗≫ ――― 忠臣中の猛将
     ジェペ ・・・・・・・   ベスト族
     クビライ ・・・・・・  バルラス族
     ジェルメ ・・・・・・ ウリンカイ族
     スベェディ ・・・・・ ウリンカイ族
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 「四駿」はテムジンの側近中の側近であり、テムジンが最も信
頼していた将軍です。とくにムカイとボオルチェは四駿の中でも
とくにテムジンに信頼されていたとされています。
 これに対して「四狗」は、四駿と同様に成吉思汗のために戦っ
た将軍なのですが、主として危険な最前線に立って戦っている猛
将なのです。子供の頃からテムジンと行動を共にしたジェルメ、
かつて敵であり、成吉思汗を狙撃したが、許されて部下になった
ジェベ、特に力があったフビライ、最も若く、後にバトゥの西征
などで活躍するスブタイの4人です。ちなみに、フビライは蒙古
帝国の第6代大汗のフビライとは別人です。
 しかし、四狗は、とくにジェベなど、かつての敵であったため
四駿ほど成吉思汗と親しくはなれなかったようで、そのためいつ
も危険な前線を任されていたという見方もできます。
 東半分の覇権を手に入れたテムジンにとって、もはや最大にし
て最後の敵は、北西部を支配しているナイマン族だったのです。
そのナイマン陣営には、テムジンとの戦いに敗れたジャムカをは
じめとするテムジンに恨みを持つ部族の逃亡兵が大量に集結して
いたのです。
 したがって、人数的にはナイマン軍がテムジン率いるモンゴル
軍よりも圧倒的に上回っていたのです。しかし、テムジンはナイ
マンと戦い、雌雄を決しようと考えていたのです。この一戦に勝
利すれば、部族間の抗争に終止符が打たれ、積年の恨みを水に流
すことができると考えたからです。
 テムジンは戦いに備えて、いくつかの準備を行っています。そ
の1つは、既にタタール戦のときに発令し、定着させてきている
軍律のさらなる強化です。
 タタール戦の前に発令した軍律は、それ以降の2つの戦いで、
違反者への厳正にして厳しい処分に課すことによって定着しつつ
あったのをもう一回引き締めたのです。
 タタール戦のさい、この軍律に違反したアルタン、クチャル、
ダリタイの3人は、テムジンの近親者の有力者であったのです。
彼らは、われわれの協力があってテムジンはカンになれたのであ
り、われわれに命令するのはけしからんとして、戦利品を公然と
私物化したのです。
 しかし、テムジンはこれを知ると、ジェベ、クビライの2将軍
に命じて、彼らが勝手に私物化した馬や略奪品をことごとく没収
させたのです。
 テムジンが軍律を厳格化させたのは、既にこの時点でテムジン
がモンゴル統一を考えていたこと、それに人間にとってもっとも
大切なものの一つが「法」の尊重であることを徹底させたかった
のではないかと思われます。      ・・・・・[義経16]


≪画像および関連情報≫
 ・テムジンを描いたイラスト
  http://www.juno.dti.ne.jp/~tenchi/syokai/S-Mwb1.html

1646号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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