2005年08月01日

義経に似ているテムジンの戦い(EJ1645号)

 果たして源義経は成吉思汗なのか――この一人二役説について
蒙古――モンゴルの側から見ていくことにします。果たしてうま
く繋がるのでしょうか。
 蒙古史によると、1202年からテムジンは部族を統合するた
めの大規模な戦闘を開始しています。この話に入る前に、当時の
モンゴル高原の諸民族について簡単に述べておきます。部族を言
語で分けると、次の2つの系統に分けられます。
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  1.モンゴル語系統
    モンゴル部族 ケレイト部族 タタール部族
  2.チュルク語系統 
    ナイマン部族 メルキト部族 オングット部族
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 モンゴル高原において、最も豊かな土地とされる三河地方――
オルコン河、トゥラ河、セレンゲ河――にいたのは、最も強力な
部族といわれるケレイト部族であり、その北東方面を流れるケル
レン河の東岸地帯にはタタール族がいたのです。
 さらに西のアルタイ山脈の方面にいたのがやはり強大な勢力を
誇るナイマン部族であり、バイカル湖の南側にはメルキト部族が
いたのです。テムジンの属していたモンゴル部族はブルカン岳の
麓を流れるオナン河の流域を本拠地としていたのです。
 テムジンの属するモンゴル族は、次の3つの強力な氏族に分け
ることができます。
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             1.カタギン 氏族
      ニルン族   2.サルジウト氏族
             3.ボルジギン氏族
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 これらの3大氏族は「ニルン族」といわれる格式高い部族なの
です。このニルン族の中で一番力が高く、モンゴル部族を実質的
に支配していたのは、ボルジギン氏族です。このボルジギン氏族
にも多くの氏があり、中心的な氏は「キャト氏」――テムジンは
このキャト氏に属していたのです。
 1202年にテムジンは、タタール部族を攻めることを決意し
ていますが、攻めるに当たって、はじめて「軍律」というものを
定めています。それは、次のような内容です。
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 敵人に打ち勝つも、財物(たからもの)のところに立ち停まる
 まいぞ。勝ち終うれば、その財物はみなわれらのものなるぞ。
 必ずやわれは分かち合うぞ。     ――『モンゴル秘史』
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 当時のモンゴルの戦いでは、敵を打ち負かした氏や氏族の長は
それぞれ略奪した財物を自分のものにできたのです。しかし、こ
れを認めると、戦いのさなかに略奪品の場所に留まって、戦いを
やめてしまうのです。全軍がひとつの目標に立ち向かって戦闘す
ることを求めるテムジンにとって、これを認めるわけにはいかな
かったのです。これにより日本の戦い方に近づいたといえます。
 このタタールとの戦いは、「ダラン・ネムルゲスの戦い」とい
い、この戦いによってタタール族は事実上滅びたのです。テムジ
ンは、この戦いで軍律に違反したアルタン、クチャル、ダリタイ
の略奪物をすべて奪い、処分しています。この軍律は、やがて、
モンゴルの法律の基になっていくのです。
 テムジンにとって次の標的はケレイト部族です。しかし、ケレ
イト部族は強大であり、まともに戦ったら、当時のテムジン率い
るモンゴル軍の兵力では勝てなかったのです。
 1203年、ケレイト部族のワンカン軍が、テントを張って酒
盛りをしているとの報告を受けたテムジンは、夜を徹して騎馬軍
団をそこに走らせます。この騎馬軍団には、その前年に傘下に置
いたタタール族も含まれているのです。
 テムジン騎馬軍団は、酒盛り後のケレイト軍を急襲します。そ
して彼らを山峡にを包囲したのです。テムジンは3日3晩攻撃し
て、ケレイト軍を降伏させてしまうのです。この戦いについて、
『鉄木真用兵論』という本に次のように記述されています。この
本はイワニンというロシア人の書いたものであり、1875年に
刊行されています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 兵力において劣れる鉄木真(テムジン)は尋常の手段をもって
 勝を制するの不可能なるを知り、まず諜者をして敵情を探らし
 む。その報にいわく、敵軍は金帳の内に盛宴を張る、急ぎ侵入
 して討ち給えと。鉄木真直ちにチュルチェ及びアルカイなどの
 武将を先駆となし、疾風のごとくに突進して懸崖を下り、山下
 に陣せる敵軍の不意を襲ってこれをおう殺せり・・・。
                 ――『鉄木真用兵論』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この記述は一の谷の合戦を彷彿させるものがあります。まさに
ひよどり越えの蒙古版といえます。これ以外にもテムジンについ
て伝えられる話を調べていくと、義経を彷彿させる話がたくさん
出てくるのです。例えば、こんな話もあるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 鉄木真は少時父を喪い郎徒らにも見すてられたるにより、つい
 にメルトキ部の人々に捕えられ、敵の長老ワンカンに一身を依
 託せり。            ――『鉄木真用兵論』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これなどは、義経が子供のころ、敵将清盛のために命を助けら
れ、鞍馬山に預けられたこととそっくりの話です。
 話を元に戻しますが、このケレイト軍との戦いによって、テム
ジン率いるモンゴル軍は、モンゴル高原の東半分を傘下に収める
ことに成功したのです。当時、モンゴルの西半分はナイマン部族
が支配していたのです。テムジンにとって、最大の強敵はこのナ
イマン部族なのです。         ・・・・・[義経15]


≪画像および関連情報≫
 ・モンゴル騎馬軍団
  モンゴル騎馬軍団はユーラシア大陸全土にまたがる大規模な
  征服戦争によって、攻略した都市から職人を集め、兵器や甲
  胄を生産している。モンゴル騎馬軍団は軽装騎兵と重装騎兵
  に分かれている。
  ・軽装騎兵 ・・・・ 左
  ・重装騎兵 ・・・・ 中
  火器が発達によって鎧も変化。右に見るように、分厚い棉や
  絹布地の中に鉄の甲片を仕込み、表面に銅の釘で固定した棉
  甲が誕生する。

1645号.jpg
posted by 平野 浩 at 09:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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