2005年07月29日

義経の痕跡残るウラジオストック近郊(EJ1644号)

 義経軍はウラジオストック近郊までやってきて、そこを本拠地
にして約10年間を過ごしていると考えられます。そうであると
すると、ウラジオストック周辺にその痕跡はかなり残っているも
のと思われます。
 その痕跡のひとつが、ウラジオストック北方のニコラエフスク
市にある義経公園です。ここにある亀石についてもう少し補足し
ます。昨日のEJで述べたように、その亀石は台座であって、そ
の上に石碑があり、「源義経墓」と彫られていたというのです。
 この亀石と石碑を目撃した日本人が何人かいるのです。大正7
年――第一次世界大戦の末期の頃ですが、ロシア革命に呼応して
連合軍の要請で日本はシベリアに遠征軍を送っているのです。そ
の中で、東部シベリアに出兵していた人たちの中に目撃者がいる
です。その一人である宮古市の刈屋清右衛門氏は、佐々木勝三氏
に次のように語っています。
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 ニコラエフスクの山中の盆地に、15メートルほどの小高い山
 があり、石垣が崩れたところがありました。そこに墓石があり
 竿石の長さは二尺五寸(約76センチ)ありましたが、3枚に
 割れていました。石垣が崩れるとき割れたのでしょうか。その
 3枚を合わせてみましたら、字が竿石いっぱいに彫られてあり
 ました。字は明らかに「大日本源義経墓」というようにつなが
 りました。              ――刈屋清右衛門氏
         ――佐々木勝三、大町北造、横田正二/共著
   『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』より。勁文社刊
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 ところで、この公園は現存し、亀石はまだあるようですが、石
碑の方は、ロシア側がハバロフスクの博物館に運び去っていると
のことです。この公園を訪れて台石を見た小谷部氏によると、台
石は硬質であり、その磨減の古さから考えて、600〜700年
の星霜を経たものであるとのことです。
 ところで、ハバロフスクの博物館に運ばれたという石碑はどう
なったのでしょうか。
 小谷部氏は、ハバロフスク博物館まで行こうとしたのですが、
治安に問題があるとのことで断念し、当時ウラジオストック派遣
軍司令部の中岡中佐に博物館に行って確認して欲しいと依頼した
のです。その中岡中佐から小谷部氏に対する報告文です。
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 ハバロフスク博物館にある、いわゆる義経の碑と称するものは
 白色を帯びたる花崗岩の一種なり。この石碑の表面には厚くセ
 メントのしっくいを塗り、何物か彫刻しあるものを隠蔽せり。
 土人の言によれば大正10年日本軍がハバロフスク撤退後、過
 激派のなせることなりと。しかし、博物館長はこのしっくいが
 いずれのとき塗られしやおぼえなきと答えき。
               ――佐々木勝三氏の上経書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ロシア人がしっくいを塗って文字を隠したのは明らかで、自国
に不利な文字がそこにあったものと考えられます。そこには「大
日本源義経」と書いてあったのですから。
 この地に義経公園があるということは、それはこの地に古くか
ら居留していた日本人にとって、義経がこの地に来たことを示す
何らかのあかしがあったからと考えられます。そして、おそらく
義経公園は古城跡の一部ではなかったかと思われます。
 それに、このニコラエフスク市は黒竜江のほとりにあり、それ
が、「大きな川のあるクルムセの国」の川ではないかと考えられ
ます。案外ニコラエフスクが「クルムセの国」ということも考え
られるのです。
 もうひとつ義経の城ではないかと思われるものに「蘇城(スー
チャン)」があります。EJ第1639号でご紹介した古城跡の
ことです。スーチャンもナホトカ、ウラジオストック、ニコラエ
フスクを結ぶ線の近くにあるのです。
 この地を支配していたのは、土着民のタモー族というのですが
このタモー族の伝説によると、蘇城は昔、イーポンの武将が築い
た城ということなのです。「イーポン」は「日本」を連想させま
すし、武将の名前はキン・ウ・チィというのですが、これは源義
経であると考えられます。
 さらに重要な痕跡と思われるものがあります。それは、既にご
紹介している「ハンガン岬」です。このハンガン岬――もう少し
正確にいうと、アメリカ湾とオリガーワンの中間にある泊地であ
るらしいのです。ハンガンではなく、「ハングアン」と発音する
そうです。シベリアの海岸には断崖絶壁が多く、船を着けるのに
適当な地点が少ないのですが、そういう意味でこの付近では重要
な泊地になっているのです。
 もっとも現在では名前は変更されているらしく、地図上では確
認できないのですが、シベリア出兵の当時はそういう名前で呼ば
れていたそうです。そういうところから、義経一行はこの泊地か
ら上陸したのではないかといわれているのです。なお、ハンガン
とスーチャンとは約120キロ離れているとのことです。
 これに関連する情報として、大正14年2月1日付の朝日新聞
に、こんな話が出ているのです。シベリア出兵当時、ニコラエフ
スクの近くでタタール人の芝居を見たところ、その巻狩の場面で
役者が笹竜胆(ささりんどう)の紋をつけた日本流の鎧兜であら
われたというのです。わけを尋ねたところ、昔から伝わっている
もので、誰が作ったかについてはわからないという返事だったと
いわれます。
 笹竜胆といえば、源氏の紋章です。それを蒙古武人が着けてい
たことになるのです。この笹竜胆の紋章は、ナホトカの一般住居
にもつけられており、これも義経ゆかりのものではないかと考え
られるのです。
 歴史学者たちは、こうした数々の証拠をどのように考えている
のでしょうか。          ・・・・・・ [義経14]


≪画像および関連情報≫
 ・笹竜胆/ささりんどう
  民家の建物の壁に笹竜胆/400年以上になる古い建物
  向って左はモンゴルの笹竜胆/右は源氏の紋章/笹竜胆

1644号.jpg
posted by 平野 浩 at 05:05| Comment(3) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 いよいよ「義経」も最終回を迎えます。

 この大河ドラマの影響で、全国の義経伝説が地域起こしにもなっています。
 しかし、大陸にまでに、はっきりと義経の痕跡が残っているとなると、これは、まだ発掘されていない、研究されていない事実があるといえるのではないでしょうか。
 承諾も得ないままに、リンクさせていただきました。今後ともよろしくお願いします。
Posted by あすとろ at 2005年12月10日 06:53
ロシアにも義経伝説があるなんて凄いですね
この笹りんどうの写真はどこに載っていんですか?
Posted by hanaoka at 2008年05月20日 19:20
この画像の朱色矢印は、間違っています。本当は右の方につけるべきものです。
Posted by GENGIKEI at 2018年12月31日 14:01
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