に渡り、西蝦夷に行ったこと、それに義経の後を追って大河兼任
率いる200騎が同じルートで蝦夷地に渡って義経・忠衡軍と合
流したらしいことは、これまでの分析でわかってきました。
しかし、そこから先は義経軍がどのルートをたどって進軍した
かについては、当然ですが、ほとんど確かな資料はないのです。
そこで、既にご紹介している小谷部氏の著書2冊、それを解説し
た佐々木勝三氏他2氏の共著に加えて、次の著書を参照し、推理
してみるしかないのです。
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ドーソン著/佐口透訳、『モンゴル帝国史』
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著者のドーソンという人は、アルメニア人のフィンランドの外
交官で、この本は彼が中近東に赴任していたときに『蒙古史』
タイトルで書き上げたものです。内容は公平・正確という評価が
高く、多くの読書人を魅了した名著なのです。この『モンゴル帝
国史』は、その新装版なのです。もちろん、この本の中でも「義
経=成吉思汗説」は、取り上げられています。
旧版のドーソンの『蒙古史』
大書ですが、成吉思汗の30歳前後から1193年頃までのこと
に関しては、たったの4ページしか費やしていないのです。それ
は情報がほとんどないことを示しています。
1203年から1204年にかけて、成吉思汗はモンゴル部族
の長テムジン(鉄木真)として、モンゴル高原の中央部でケレイ
ト部族やタタール部族と戦闘しています。それなのに、1190
年から1202年まではユーラシア大陸の東端において、満州女
直や高麗軍と戦争した記録が残されているのです。なぜ、そんな
ところまで行って戦争しなければならないのでしょうか――これ
は大きな謎だったのです。
しかし、源義経=成吉思汗と考えるとこの謎は一挙に解消して
しまいます。源義経率いる軍勢が、サハリン島の西北端から、大
陸のアムール川河口付近に上陸し、1190年〜91年にその地
を支配していた満州女直族のワンスンと交戦したと考えれば、話
がぴったり合うのです。
この「満州女直」というのは、北東アジアの満州(現在の中国
東北地区)に住んでいたツングース系の民族で、「女真」ともい
うのです。この満州女直族を打ち破ったということは、その時点
で義経軍は、既に相当の規模であったことを意味します。
もともと忠衡が率いていたのは、騎馬軍団で東北騎馬軍団とい
われていたのです。奥州は馬の産地であり、一戸から九戸までの
9つの牧場があったほどです。そういうわけで、藤原家の軍隊は
騎馬軍団なのです。
この忠衡率いる100騎の騎馬軍団が義経に従っており、後か
ら合流したとみられる大河兼任率いる200騎の騎馬軍団、それ
にアイヌの一団を加えると、約300騎から〜400騎の軍勢に
なるのです。これが後にテムジン騎馬軍団になるのです。
軍隊の人数は決して多くありませんが、これだけの手駒を持っ
ていれば、平家を相手にしてあれだけ見事な戦いをした義経であ
れば、十分に満州女直軍と戦えたであろうと推測できます。そし
て義経軍は打ち破った満州女直軍も加えて、沿海州(シベリア)
を海岸線に沿って南下し、現在のウラジオストック近郊まで達し
たと考えられるのです。
ウラジオストック着いた義経軍は、1192年に休む間もなく
高麗チャガン軍と交戦し、これを破っています。その後、義経軍
はウラジオストック近郊に本拠地を築き、ここで兵を訓練し、体
制を整えています。義経軍はここで約10年の月日を過ごしてい
ます。次の飛躍のためには十分の期間です。
ところで、現在「タタール海峡」といわれる海峡は、間宮林蔵
が樺太探検のさいに発見した海峡であり、日本では「間宮海峡」
と呼ばれています。
調べによると、間宮林蔵の樺太探検の目的のひとつは義経伝説
の真偽の解明であったといわれているのです。彼は、アムール川
流域に住む人々に義経のことを聞いてまわっているのですが、そ
こに義経のいくつかの足跡を見つけているといわれています。
間宮林蔵のこのときの実地踏査によって得られた情報は、ドイ
ツ人医師のシーボルトによる義経北行説と義経=成吉思汗説とし
て発表されています。シーボルトと間宮林蔵は友人関係にあり、
情報源は間宮林蔵であったことは間違いないと思われます。
義経軍がウラジオストック近郊を本拠地にしたことを示す痕跡
は多く見られます。佐々木勝三氏は、ウラジオストックの北方に
あるニコラエフスクという町の商店で買ったという絵葉書を手に
入れています。大正7年に東部シベリアに出兵した人から贈呈さ
れたものであるというのです。
その絵葉書には、「源義経墓」と書いてある亀形の台石のよう
なものが写っていたというのです。絵葉書の所有者は藤田伝助氏
といい、藤田氏は次のように述べています。
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私は23歳の時、上等兵で伍長勤務、分隊長としてウラジオス
トックに行きました。そして、ツルキンという地名の所に居り
ました。ニコラエフスク市に行った時、商店で絵葉書を買いま
したところ、義経(ぎけい)公園という公園の中に、「源義経
墓」と書いてある亀形の台石が写真になっていたのです。
――佐々木勝三、大町北造、横田正二/共著
『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』より。勁文社刊
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小谷部氏の本にもニコラエフスクにある義経公園の亀石の写真
が出ています。その亀石の上にかつて石碑が立っており、「源義
経墓」と書いてあったそうです。そのため、ここに居住する日本
人はこの公園のことを「義経公園」呼んでいたのです。帝政ロシ
ア時代にはまだ日本人が住んでいたのです。・・・ [義経13]
≪画像および関連情報≫
・小谷部氏の原文
隻城子(ニコラエフスク)の市邑に、土俗の所謂義将軍の古
碑と称するものあり、土人はこれを日本の武将の碑とも或は
支那の将軍の碑とも傳ふ。居留日本人は一般にこれを義経の
碑と称し、而して其の建てられたる市の公園を、我が居留民
は現に之を義経公園と呼びて有名なるものなり。
――小谷部全一郎著『成吉思汗は源義経也』