2005年07月26日

末松謙澄の源義経=成吉思汗説(1641号)

 明治12年(1879年)のことです。英国で日本人の手にな
る次の英文の論文が発表されたのです。
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 The Identify of the Great Conqueror Genghis Khan with
 the Japanese Hero Yoshitsune.
 − 大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人なること −
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 この論文を書いた人は、末松謙澄――当時、ケンブリッジ大学
で、文学・法学を学ぶかたわら、一等書記官見習としてロンドン
の日本大使館に勤務していた青年なのです。
 この末松謙澄という人物はただ者ではないのです。文学・和歌
・漢詩・芸術などの造詣が深く、世界ではじめて『源氏物語』を
翻訳出版するなど大活躍しています。さらに、明治23年には第
1回の衆議院議員選挙に当選して政治の世界でも活躍し、内務大
臣や逓信大臣を務めているのです。
 さて、「成吉思汗=源義経」の英文論文を末松は師の福沢諭吉
のところに持っていったのです。福沢諭吉はこれを読んで「これ
は面白いので、誰か翻訳して書籍として出版したらどうか」と塾
生たちに勧めたのです。
 それを引き受けたのは塾生の内田弥八です。早速それを翻訳し
『義経再興記』というタイトルで明治18年(1885年)に出版
したのです。しかし、著者は「内田弥八」として出版してしまっ
たのです。タイトルの題字は山岡鉄舟、序文は漢学者の石川鴻齋
と土田淡堂が書いて、立派な本にしたのです。
 『義経再興記』は発売されると、大センセーショナルを巻き起
こし、本は売れに売れたのです。明治20年には7版を印刷、最
終的には10版までいったと思われるのです。
 末松説は、義経が蝦夷から大陸に渡ったという前提に立って、
義経と成吉思汗の類似点を例証しているのです。末松が指摘して
いることの多くは、ことばの類似性です。例えば、「成吉思汗」
という名前は「源義経」からきているというのがあります。「源
義経」は「ゲンギケイ」と読むことができますが、それが「ゲン
ギス」になり、やがて「ジンギス」になったとというのです。蒙
古語では、ゲ、ギ、ジの3字はほとんど明確な区別はないからで
す。「カン」は王位の総称です。
 さらに、成吉思汗は「ニロン族」の出身であること、父は「エ
ゾカイ」もしくは「エスガイ」と称し、母は「ホエルン・イケ」
と呼んでいたことを指摘しています。末松は、ここでいう「ニロ
ン」は「日本」のことであり、「エゾカイ」は「蝦夷の海からき
た」ことを意味しているというのです。
 この末松論文は当然のことながら、学問の世界からは激しい反
論の嵐がさらされたのです。確かに末松論文は内容的に不十分な
ところが多く、牽強付会の説として批判されたのです。牽強付会
とは、自説に都合の良いところだけをピックアップしてつじつま
合わせをするという意味です。
 しかし、この末松論文は決してムダなことではなかったといえ
ます。ひとつは、この論文が下敷きとなって、小谷部全一郎の本
が誕生したからです。小谷部に蒙古の実地踏査を決意させたのも
末松論文だったからです。
 もうひとつは、この末松論文が契機となって巻き起こった義経
生存説ブームに乗って、明治28年に博文館から『新撰日本小歴
史』という歴史教科書が発刊されたことです。同書の79ページ
に次の記述があります。これはまさに前代未聞のことといえるで
しょう。「義経、衣川で自害」という歴史の定説を覆しているの
ですから。
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    泰衡終に義経を攻む。義経遁れて蝦夷に入る
            ―――『新撰日本小歴史』
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 末松論文で注目すべきは、成吉思汗の母の名前とされる「ホエ
ルン・イケ」です。蒙古語で「イケ」は母、「ホエルン」は雲と
いう意味です。
 これだけでは別にどうということはないのですが、後に成吉思
汗は母親に対して、「センシ皇后」という名前を贈っています。
「センシ」というのは漢字なのですが、字が難しくてメールで送
れないのでカナにします。正しくは「ホエルン・イケ・センシ」
となるのです。
 こうなると連想されるのは「池ノ禅尼」です。池ノ禅尼は、平
清盛の養母です。平治の乱の直後に捕えられた源義朝の男の遺児
は一人残らず、殺されることになっていたのです。ところが、そ
のとき清盛を説得して、頼朝や義経たちの命を助けたのが池の禅
尼です。結果的にそれが平家一門の滅亡を招いたのですが、少な
くとも義経にとって池の禅尼は命の恩人なのです。
 もし、義経が成吉思汗であったとしたら、成吉思汗の母となる
女性は何者かということになりますが、そういう母親的存在の女
性に池ノ禅尼の名前を贈ることは考えられることです。
 しかし、義経=成吉思汗説を証明するのに、単にことばの面か
らだけやろうというのは限界があります。幅広い歴史書の分析に
実地踏査などを加えて、さまざまな情報から総合的に判断すべき
です。しかし、学問の世界の反論はそれを守っているとはいえな
いと思うのです。最初に結論ありきであって、その結論を守るた
めに、必ずしも理をもってせず、馬鹿にしたり、罵倒したりする
など、あまりにも感情的になり過ぎる点があると思います。
 ここまでそういう検討を加えた結果、少なくとも「義経は衣川
で自害」という歴史的定説にはかなりの疑問があり、義経一行は
北へ逃れたというのが事実ではないかと考えられるのです。学問
の世界の反論はあまりにも抽象的であり、実証的とはいい切れな
いからです。海を渡って大陸に入った義経一行はどのようにして
成吉思汗といわれるようになったのでしょうか。明日からこの問
題を考えていきます。        ・・・・・・[義経11]


≪画像および関連情報≫
 ・末松謙澄(1855〜1920)
  安政2(1855)年、行橋市前田生まれ。
  10歳の頃から仏山の私塾で漢学を学び、新聞社で活躍後、
  官界に入る。山縣有朋に文才を認めれて陸軍省へ。明治11
  年ケンブリッジ大学で文学・法学を修め、在学中、英訳「源
  氏物語」を出版。帰国後伊藤博文の次女と結婚。伊藤博文を
  支える要職(逓信大臣など)を歴任すると同時に、多くの著
  作を残している。特に「防長回天史」は維新の貴重な資料と
  されるなど、マルチな才能ぶりに驚かされる。


1641号.jpg
posted by 平野 浩 at 09:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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