2005年07月22日

一世を風靡した小谷部学説(EJ1639号)

 データを整理して先に進みます。1188年2月21日――文
治4年2月21日に義経追討の院宣が出されています。朝廷はこ
の院宣を出すのは内心反対だったのですが、鎌倉の頼朝に屈する
かたちで出したのです。ここで朝廷はひとつの細工をしているの
です。平泉の藤原泰衡に対して早飛脚で密使を送り、院宣が出た
ことを知らせたのです。
 その一方で朝廷は鎌倉への使者はわざと非常に時間をかけて、
4月9日に鎌倉に到着しているのです。つまり、義経追討の院宣
が出たことを知ったのは、鎌倉の頼朝よりも平泉の泰衡の方が早
かったと思われるのです。
 朝廷の密使から義経追討の院宣が出たことを知った泰衡は、直
ちに義経にそれを知らせ、かねてからの手はずの通り、義経主従
を平泉から脱出させたのです。文治4年4月中旬のことです。こ
れは、文治5年4月30日に義経が持仏堂で自害したことになっ
ている一年以上前のことになります。
 泰衡は忠衡に命じて百名前後の兵を整えさせ、義経主従とは別
に平泉を出発させています。義経主従と行動を共にさせるために
後を追わせたのです。義経と忠衡の向った先は、安東水軍の本拠
地である津軽半島の十三です。義経主従は、十三の壇林寺に文治
5年5月に到着しています。やがて、忠衡の兵も十三に到着し、
安東水軍の船で、十三から蝦夷地に渡っています。
 この文治4年4月から翌年の文治5年4月までの一年間、泰衡
は朝廷や鎌倉の矢面に立って、金品を贈ったり、接待したりと、
のらりくらりと時間稼ぎをやったわけです。その間に義経主従と
忠衡たちは準備を整えて、蝦夷地に向けて無事に出発することが
できたのです。すべては泰衡のお陰でなのです。
 以上の考察により、義経主従が少なくとも文治5年4月には死
んでおらず、北を目指して落ち延び、やがて蝦夷地に渡っている
ことがわかってきました。あとは、具体的に彼らはどこに行って
何をしたかについて考えていきます。
 シベリア地方のウラジオストック市の北部に「ハンガン岬」と
いうところがあります。地名の由来ははっきりとしていませんが
「判官」と結びつけている人もいます。
 このハンガン岬から東北に120キロ離れたところに、「スー
チャン」という場所があります。この「スーチャン」は中国語で
あり、「蘇城」と書くのです。ここには古い城跡があるので、そ
う呼ばれています。シベリア(沿海州)は1858年のネルチンス
ク条約でロシア領になるまでは清国の支配下にあったので、中国
語の地名が残っているのです。
 さて、この「蘇城」はどのような城であったのでしょうか。地
元民の間では次のいい伝えが残っているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 昔、日本の武将が危難を避けて本国を逃れ、この地に城を築い
 た。武将はここで「蘇生した」というところから、「蘇城」と
 命名された。武将はこののち城を娘に任せ、自分は中国本土に
 攻め入って強大な王国を建てた。      ――地元の伝承
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この蘇城について、実際に現地に行って調査し、そのことを本
に書いた人がいます。小谷部全一郎という人です。「源義経=成
吉思汗説」を最も普及させた人物として有名です。
 この本は『成吉思汗は源義経也』のタイトルで、冨山房から大
正13年に発刊され、ベストセラーになったのです。EJを書く
に当ってこの本は不可欠なので、中央区立京橋図書館から借りて
現在手元にあります。(添付ファイル参照)
 小谷部全一郎は、江戸時代初期からの、いわゆる義経生存説を
基本とし、問題によっては独自の解釈を加えて「源義経=成吉思
汗説」を展開しています。自ら現地に足を運んで調査をしている
ので、強い説得力があります。
 初版発行が大正13年(1924年)11月10日で、12日
には再版、12月5日には6版を出すというベストセラーを記録
したのです。
 彼は、同書の中で、次のように述べて、歴史学者たちを挑発し
たのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 成吉思汗が義経の後身でないとする者があれば、それは蛙はお
 たまじゃくしの後身ではすないと主張するようなものである。
 また、成吉思汗を生粋の蒙古人とすることは、蜥蜴を龍なりと
 するようなものである。義経の衣川自害を主張する我が国歴史
 家の見解は、影を以って実体なりと強弁し、或いは形が少しば
 かり似ているからとして、鰌を指して「鯨である」というのと
 同じことである。            ――小谷部全一郎
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これに対して歴史学者は大同団結して反撃に出たのです。国史
学、東洋史学、考古学、民俗学、国文学、国語・言語学の第一級
の研究者がずらりと結集して、次の本によって、さまざまな角度
から小谷部説を批判したのです。
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   『中央史壇』臨時増刊号
   『成吉思汗は源義経にあらず』――国史講習会発行
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 中でも金田一京助と中島利一郎の批判は激しかったのです。金
田一京助は、小谷部説は主観的であり、歴史論文は客観的に論述
されるべきものであるとし、この種の論文は「信仰」であると切
り捨てています。中島利一郎の反論はさらに激しく、小谷部論を
ひとつずつ考証して反論し、最後には、「粗忽屋」「珍説」「滑
稽」「児戯に等しい」という言葉を使って罵倒しています。
 小谷部全一郎は、8ヶ月後に『成吉思汗は源義経也――著実の
動機と再論』を出版し、反対論者たちに反論しています。
 しかし、どうして歴史学者たちはこの問題になると、かくも感
情的になってしまうのでしょうか。   ・・・・・[義経09]


≪画像および関連情報≫
 ・小谷部全一郎は、米国のエール大学に留学し、ドクター・オ
  ブ・フィロソフィーの学位を取得している。米国留学から帰
  国後、北海道でアイヌの子弟教育を行っている。博学で、努
  力家で、冒険家として有名な人である。金田一京助は、アイ
  ヌ語学の研究をしているので、小谷部とは面識があり、親し
  い間柄であるが、その所論はお互いに相容れない。

1639号.jpg
posted by 平野 浩 at 09:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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