2005年07月21日

藤原家富貴栄華の秘密(EJ1638号)

 藤原一族――奥州一帯を支配し、北の王者といわれていたので
すが、奥州一帯とはどこからどこまでを指すのでしょうか。この
ことをはっきりさせておく必要があります。
 奥州一帯――秀衡の時代には、陸奥国と出羽国を支配していた
のです。この陸奥国と出羽国は、現在の福島県以北青森県までを
指すのです。まさに北の王者です。
 ところで、秀衡は、1170年5月に朝廷から「鎮守府将軍」
に任命されているのです。鎮守府とは、陸奥と出羽、つまり奥州
を治める役所のことです。当時その役所は平泉にあり、秀衡は奥
州を支配する将軍に任命されたのです。EJ第1635号におい
て「四代将軍泰衡」という言葉を使いましたが、泰衡は紛れもな
く四代鎮守府将軍なのです。
 鎌倉の頼朝がどれほど秀衡を恐れていたかを示すエピソードが
あるのです。1184年のことです。奈良の東大寺を復興するさ
いに鎌倉の頼朝は1000両を寄進したのですが、鎮守府将軍の
秀衡は5倍の5000両を出したのです。鎌倉は秀衡の財力に圧
倒されてしまったのです。それにしても、藤原家はどうしてかく
も裕福なのでしょうか。
 藤原三代の栄華は、金色堂に代表されるように、莫大な黄金の
生産があってのことです。その黄金は、一体どこから採れたので
しょうか。
 奥州には大量の砂金を産出する河川があったといううわさはあ
ります。もし、それが本当であれば、その河川の上流には莫大な
量の山金が埋蔵されているはずです。しかし、金山の開発が進歩
した後の時代になっても奥州にそのような金山が発見されたとい
う記録はないのです。
 金山の本格的な開発は、江戸時代になってから、能楽師あがり
の大久保石見守にはじまるといわれます。佐渡の金山、伊豆の金
山、石見の銀山などは有名です。
 藤原家の古い書物によると、秀衡は宋朝の天子に一万五千貫の
黄金を贈り、その見返りとして、大量の経文や仏像を手に入れて
います。一万五千貫の金――これは純金56トンに相当するので
すが、尋常ならざる量です。
 これほどの金を経文や仏像を手に入れるためにポンと投げ出す
ということは、藤原家にはその十倍二十倍の金の蓄積があったと
考えるのが自然であると思います。たとえ豊富な山金が埋蔵され
ていたとしても、当時の原始的な採鉱技術で採取されていたとは
考えにくいことです。
 さらに、もし奥州に金山があったとすれば、奥州を平定した頼
朝はもっと裕福になってもいいはずです。しかし、そういう気配
はないのです。一体藤原氏の黄金はどこから来て、どこに消えて
しまったのでしょうか。
 藤原氏の金に着眼したのは、高木彬光氏なのです。彼は、小説
『成吉思汗の秘密』の中で、神津恭介に次のように語らせている
のです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「それではせっかく奥州を平定した頼朝が、むかし藤原氏の産
 出していた黄金を手に入れることができなかったというという
 のは、どこに原因があるのでしょうか」
 「その理由は、僕にいわせれば、一つしかありませんね。鉱脈
 が枯渇したとも思えない。技術が滅びたとも思えない。原料の
 供給が絶えたとしか解釈はできないのです。これは、僕の大胆
 な推理だけれども、藤原三代の富貴栄華の源泉は、その莫大な
 黄金の原産地は、北海道、樺太――というよりも、大陸のシベ
 リア地方ではなかったかと思うんですよ」。
     ――高木彬光著、『成吉思汗の秘密』(角川文庫)より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは驚くべき推理です。藤原氏は秀衡の時代までに、当時は
まったく未開拓のシベリア方面まで勢力を広げていたという仮定
に立つからです。そのために藤原氏は、津軽海峡、宗谷海峡、間
宮海峡を渡るレベルの航海技術をマスターしていなければならな
いということになります。
 もし、この仮定が事実だとすると、平泉から大陸にいたる北方
ルートがあったことになり、義経主従はそのルートを伝わって大
陸に渡ったことになるのです。秀衡が義経と泰衡に渡した錦の袋
には、その北方ルートを示す地図が入っていたのではないかと考
えられるのです。
 ところで、義経主従が大陸に渡ったという可能性が少しずつ出
てきていますが、そういうことを記述した文献があるのでしょう
か。それとも単なる推測なのでしょうか。
 それがあるのです。実は、『松前福山略記』という文書がある
のです。そこに次のように記述されています。さらに『新撰陸奥
国誌』にも似たような記述があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 文治五年五月十二日に源義経、藤原忠衡、武蔵坊弁慶、常盤坊
 海尊、亀井六郎など主従百人余蝦夷地渡海す・・・韃靼国に渡
 る。                ――『松前福山略記』
 文治五年義経十三壇林寺に来る。主従7人。十三より海に航し
 西蝦夷に住了にヲカムイ岬より満韃の地に渡る。
                 ――『新撰陸奥国誌』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 驚くべきことは、藤原忠衡が入っていることです。「主従百人
余」とありますが、これは奥州藤原氏一族と考えられるのです。
それに『新撰陸奥国誌』にある「十三」というのは、津軽半島の
半ばにある場所であり、ここは安東水軍で有名な安東氏の本拠地
なのです。実は、秀衡の弟の秀栄は十三に福島城を築いて城主に
なっているのです。壇林寺は秀栄が建造した寺なのです。
 「十三より海に航し」とは、安東水軍の船で蝦夷地に送り届け
ていることを示しています。このように大陸へはちゃんとルート
が存在していたのです。       ・・・・・・ [義経08]


≪画像および関連情報≫
 ・十三湖と安東水軍
  鎌倉時代のころ、本州北端に勢力を有していたのは、現在の
  青森県市浦村の十三湖付近を本拠地としていた「安東水軍」
  で有名な安東氏であるが、安東氏は、当時のえぞが島にも、
  えぞ探題として勢力を及ぼしたとみられる。その後、安東氏
  は、八戸方面から進出してきた南部氏との戦いに敗れえぞが
  島に逃れている。また、安東氏を擁した武田信広――武田は
  若狭の国から流れてきたといわれている――は、その蠣崎氏
  の養子となり、後の松前藩の始祖となったといわれている。

1638号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:50| Comment(2) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
大変勉強になりました。安東俊幸
Posted by 安東俊幸 at 2011年02月17日 06:41
高木彬光著、『成吉思汗の秘密』(角川文庫)

私もこの神津恭介推理を正しいと考えています。
フビライは祖父の失地回復として二度も元寇を行なった、とも考えています。豊かなローマ帝国を掌中に収める寸前に踵を返して、こんな辺境の痩せた島国へ主力の大軍を二度も送る動機には、マフィアの血の掟にならぶ血縁が受けた仇への並々ならぬ復讐心が感じられるからです。

もっとも神津恭介の邪馬台国推理のほうには与しませんが。
Posted by 東行系 at 2011年02月24日 11:58
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