2001年07月25日

●戦時経済体制の企画立案者は誰か(EJ第665号)

 橋本内閣における省庁再編は、名称こそ変わったものの実態は
何も変っていませんが、戦後の占領軍司令部による戦時体制の解
体もまさにそれだったのです。
 例えば、軍需省は、通商産業省と経済企画庁に分割されただけ
であり、その実態は戦時中と何も変わっていないのです。また、
戦時中全部門の業種団体を傘下に置いていた中央統制会は経団連
になるなど、戦時中の団体もほとんど名前を変えて復活している
のです。日本生産性本部、全国銀行協会などみなそうです。
 省庁や団体だけではないのです。戦時法令も名前を変えてほと
んど残っています。とくに金融関係の法令は無傷なのです。19
37年の臨時資金調整法、1940年の銀行等資金運用令、19
42年の日本銀行法もそのままです。
 1949年に制定された外国為替・外国貿易管理法は、193
2年の資本逃避防止法と内容はほとんど同じです。しかも、この
外国為替・外国貿易管理法と日本銀行法は、1998年まで改正
されることなく効力を発揮していたのです。
 省庁、法律だけでなく、それに加えて戦時経済を企画・運営し
てきた指導者や官僚は、ほとんど同じ地位を維持して生き残って
います。とくに戦時経済の立案者である指導者や官僚はほとんど
追放になることはなく、たとえなってもすぐ解除されて元の地位
に戻っており、中には首相にまで登りつめた者もいるのです。も
ちろん、占領軍司令部の配慮によるものです。両者の利害が一致
したからです。
 実は戦後の重要な経済および政治指導者の多くは、戦時中のエ
リート官僚であり、“満州閥”といわれる人たちだったのです。
その代表的な一人が岸信介です。今の若い人に満州といってもピ
ンとこないと思いますが、満州は当時日本が統治しており、そこ
には陸軍の主力が駐在していたのです。
 岸信介は満州を支配していたエリートの一人であり、軍需省の
トップ官僚だったのです。戦時経済システムの重要な立案者の一
人であるとともに戦後日本経済の立案者の中心的存在なのです。
岸は戦争中商工大臣を務めましたが、戦後は首相になり、そのあ
とでやはり首相になる弟の佐藤栄作とともに1972年まで、あ
わせて10年も首相の座を独占したのです。この岸、佐藤によっ
て日本政治の保守本流が築かれ、それが田中角栄に受け継がれて
いくことになります。
 戦時中岸信介と同じ経済相を務めていたドイツのアルベルト・
シュペーアがベルリンのシュパンダウ刑務所に投獄されていたそ
の時期に岸は首相になっていたのですから、米国占領軍がドイツ
に厳しく日本に甘かったことがわかると思います。それは、共産
主義の進出を食い止めるために米国としては日本の経済復興を急
ぐ必要があったからです。
 戦時経済体制の立案者のエリート官僚の中に、もう一人誰でも
知っている有名な人物がいます。中曽根康弘です。彼は内務省出
身の官僚であり、若くしてこのプロジェクトに参加しています。
岸にしても中曽根にしても若い頃からその優秀性は音に聞こえて
いたといいます。
 つまり、戦前に構築された戦時経済システムは、戦後に米国の
意向を受けて戦後経済体制として復活し、諸外国の自由市場シス
テムを徹底的に打ち負かし、奇跡の経済成長を成し遂げることに
結びつくのです。そして、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と
呼ばれ、米国に次ぐ経済大国の地位を占めるようになるのです。
 そしてこの体制を自民党という翼賛政党で、1993年までの
40年にわたって守り切ってきたのです。表面上はいくつかの野
党も存在し、批判勢力に発散の場所を与えていますので、民主主
義のように見えますが、その実態はかなり違うのです。
 しかし、この無敵の経済発展プランも50年を経過して制度疲
労を起こしつつあります。あれほど優秀だった官僚も平時では質
が下落してきています。小泉首相のいう「構造改革」はこの体制
を壊すことを意味しているはずですが、自民党の中にいて本当に
やれるのでしょうか。それに本当の改革は日銀という巨大な伏魔
殿を変革しなければならないのです。これについては少しずつ明
らかにしていきたいと思います。しかし、これがどんなに大変な
ことであるか、本当に小泉首相はわかっているのでしょうか。
 戦時の経済官僚が戦後においてもっとも力を入れて取り組んだ
のは、1920年代のように市場から資金を集める直接金融を復
活させないで、銀行融資による間接金融を常態化させることだっ
たのです。
 戦時中でもそうでしたが、その理由は株主よりも企業の経営者
の力を強くしたかったからです。直接金融では株主を強くしてし
まうことになり、これでは急速な経済成長は望めないからです。
 銀行融資であれば、その融資の使い方は銀行が監視し、その銀
行を中央銀行である日銀が監視する体制がとれるのです。しかし
その銀行にしても企業であるので、銀行の所有者(オーナー)と
銀行の経営者は厳しく分離されたのです。
 株についても他の銀行と相互に持ち合う方式を勧め、株主が強
くならないよう慎重な手が打たれたのです。日本企業に多い株の
持ち合いはこうした理由により多くなっているのです。
 そして銀行経営者には、利潤よりも成長に関心を持たせるよう
モチベートして、銀行を貸し出し競争に走らせたのです。これが
バブル期の信じられない貸し出しに結びつき、大量の不良債権を
かかえる結果になるのです。
 経済官僚が銀行融資を選んだもうひとつの理由は、資金調達が
迅速に行えることです。とくに戦争中には、優先企業に迅速に大
量の資金を調達しなければならないのですが、銀行融資は市場調
達よりも迅速さでは勝っているわけです。
 EJ664号で戦時中国策会社が多数作られたことをお話しし
ましたが、それらの国策会社は生産目標を達成させるための資金
を大蔵省によって割り当てられた特定の銀行から受け取るように
なっていたのです。これがメインバンクの始まりであり、戦後も
この制度は踏襲されるのです。 −−[円の支配者日銀/21]
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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