2001年07月24日

●小泉改革は戦時体制の改革となる(EJ第664号)

 1937年に中国での紛争が激化して戦争が始まり、もっと大
きな戦争も眼前に迫っているときのことです。何としても日本経
済を急成長させる必要がある、成長を促進するために成長率を可
能な限り高め、あらゆる資源を総動員して失業というムダをなく
す必要がある――そのための理論構築をしたのは、軍部と大量失
業時代に入省した革新官僚であり、彼らが一体となって日本の構
造改革が進められたのです。
 そのためにまずやるべきことは、当時強大な権限を有していた
株主の力を奪うことだったのです。1943年10月に会社法が
改正され、新しい軍需会社法が成立したのです。これにより企業
経営における株主の影響力は消滅してしまうことになります。
株主配当は厳しく抑えられ、利潤の大半は再投資と経営者の報
酬、従業員の給与、それに生産性向上に対して与えられる褒賞に
分配されることになったのです。
 このシステムによって経営者と従業員の報酬が増えたのですが
国家非常時にあまり多額の報酬を受け取るのはまずいため、勤続
年数に対応して報酬を受け取るシステムをとり入れたのです。こ
れが年功給の始まりなのです。その他、企業福祉制度としての健
康保険制度、労働者年金保険制度などもこの時期にできているの
です。
そして、企業を管轄する官庁としての商工省は企画院と合併し
て軍需省が誕生します。これにより株の大半を政府が持つ国策会
社が、1937年の27社から1941年には154社に増加す
ることになります。
 その結果、軍需産業が繁栄し、個人が消費する商品やサービス
は著しく減少します。そこでこの段階で貯蓄が奨励され、全国貯
蓄奨励運動が開始されたのです。このようにして消費が巧妙に抑
えられ、家計部門の富は企業部門へと移されていったのです。
 この1937年から1945年までの構造改革によってほとん
どの企業は、利益ではなく、成長を目指す半官の事業に変貌して
しまうことになります。
 それに政治の面で軍部と官僚は政治家が口出しをすることを排
除するため、1940年に政党は廃止され、ほとんどの政治家は
ひとつの政党に統合されてしまうのです。この政党が大政翼賛会
です。この年に戦時動員に対応するため、隣組制度ができている
のですが、戦後もこれらの制度はかたちを変えて存続することに
なるのです。
 先般来の田中外相と外務省のトラブルで判明したように、日本
の省庁の実質的運営は政治家ではなく官僚がやっているのです。
これは外務省に限らずどの省庁でも同じであり、そういう基礎は
戦前においてすでに出来上がっていたということができます。
 この1937年から1945年にいたる国家の構造改革は、ほ
とんどそのままのかたちで戦後の日本経済を支えることになるの
です。奇跡といわれた戦後日本の復興は戦前にその基礎が築かれ
ていたことになります。
 しかし、この経済システムの真の立案者は誰なのでしょうか。
このシステムは驚くほど一貫しており、論理的に整合性があり、
無駄が一切ないのです。しかも、信じられないほど短期間で作り
上げられている――どうしてそんなことができたのでしょうか。
 しかも、この改革プランの立案者たちは、当時すでに日本の傘
下にあった満州でこの経済システムの実験をやっているのです。
そのうえで日本にその制度を導入し、さらに戦後いくつかの変更
を加えて戦後経済体制として定着させたのです。
 このように、戦後の経済システムや社会システム、政治システ
ムが戦前に出来上がっていたとすれば、米国の占領政策とは一体
何だったのでしょうか。
米国の占領政策とは、日本を民主化し、非軍事化し、規制を緩
和し、自由化するという点にあったはずです。確かに、占領軍司
令部はこの目標を達成するため、国家総動員法などの戦時下の法
律や規則を廃止し、軍部および戦時団体は消滅。軍需省、内務省
は1945年に廃止されています。
 また、GHQは3つの大改革――@財閥解体、A農地改革、B
労働の民主化を掲げて、戦時経済体制はほぼ完全に解体したよう
に見えたのです。しかし、1952年4月に米国による日本の占
領が終了したとき、当初占領軍に課せられていた目標とは正反対
の体制が日本に出来上がっていたのです。
 どうしてそのようなことになったのでしょうか。それを遂行す
る過程で米国側の事情が大きく変化したのです。それはソ連との
冷戦の激化によって、米国は日本を共産主義に対する確かな橋頭
堡とするため、日本経済を急速に成長させる必要に迫られていた
からです。そこで米国の対日政策は急転換したのです。
 そのときワシントンと日本側の官僚との間で何らかのやりとり
があったと思うのです。その結果、1930年代の体制で行くの
が一番良いという結論に達したのではないか。これに合わせて日
本の占領政策は、ドイツに対するよりもはるかに緩やかな占領政
策がとられることになったのです。
 占領軍はドイツでは直接支配をしましたが、日本では間接支配
――つまり、官僚を通しての支配を行ったのです。それらの官僚
は、戦時経済体制を構築した官僚たちと同じであり、戦時中は彼
らの権限を法的に保証していた国家総動員法などの法律がなくな
ったとはいえ、占領軍のバックアップを受けて、むしろ彼らの権
限は強化されたということがいえるのです。それにかつて彼らを
けん制していた軍部と内務省がなくなっていることもそれを後押
ししたといえます。
 小泉首相は「構造改革」を唱えて参院選を戦っていますが、そ
の改革は戦時経済体制、社会システム、政治システムの改革とい
うことになるのですが、彼は本当にこういうことが分かっていて
やっているのでしょうか。
 自由民主党はいくつかの政党が統合され、1955年に誕生し
ています。いわゆる55年体制は、官僚支配を前提とする翼賛会
そのものであるとはいえないでしょうか。
               −−[円の支配者日銀/20]
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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