2005年07月15日

金色堂に祀られていた泰衡の首(EJ1635号)

 平泉の金色堂といえば藤原家の廟所です。ここには、藤原家の
三代の将軍――清衡、基衡、秀衡の遺体が祀ってあるのです。し
かし、秀衡の遺言を守れず、藤原家を滅亡に導いた四代将軍泰衡
は、金色堂に祀ってもらえなかったとされています。
 しかし、これら3体の遺体のほかに首桶がひとつ入っているの
です。これは、秀衡の遺言を忠実に守ろうとして兄泰衡に殺され
た秀衡の三男忠衡の首と今までいわれてきたのです。
 明治18年に記述されたという『平泉志』の金色堂の章には次
のように記述されています。
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 三壇中に藤原氏三代の棺を納む、遺骸各厳然として存在す。中
 央清衡、左基衡、右秀衡の棺側に忠衡の首桶あり。
               ――『平泉志』金色堂の章より
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 しかし、この事実は、昭和25年までは誰一人疑う者はおらず
信じられてきたのですが、同年、朝日新聞社の学術調査団が、そ
れまで忠衡とされていた首を精査した結果、その首は泰衡である
ことがわかったのです。第四代泰衡はちゃんと金色堂に祀られて
いたのです。
 『吾妻鏡』によると、頼朝は泰衡の首を安倍貞任の例にならっ
て、泰衡の首の眉間部分に長さ八寸の鉄釘を打ちつけ、陣ヶ岡で
さらし首にしていますが、金色堂の中の首にはその傷口があった
のです。
 さらに、歯の消耗などから調べて、30歳程度の男性であるこ
とも判明しています。『吾妻鏡』によると、忠衡は23歳、泰衡
は31歳といわれているのです。したがって、首は泰衡のもので
あることが明らかになったのです。
 それでは、どうして首は忠衡といわれてきたのでしょうか。
 それは頼朝の怒りを恐れたからです。このことからも衣川の戦
いが偽戦であり、泰衡は忠実に父秀衡の命令を守ったということ
がわかります。
 それでは、忠衡はどうしたのでしょうか。
 佐々木勝三氏らの研究家たちは、義経の行方を追跡していく過
程で、藤原忠衡の子孫を発見しているのです。つまり、忠衡は殺
されていなかったのです。
 忠衡の子孫(長男)は久慈市の吉田に城を築いて吉田権之介奉
行と称し、その子孫は泉田を屋号としてきています。現在、岩手
県九戸郡野田村に「中野姓」を名乗っていますが、その屋号は、
「泉田」なのです。
 佐々木氏らは、同家を訪問して、その由緒書きを手に入れてい
るのです。その一部をご紹介しましょう。
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  我が大祖は元平泉の藤原清衡三代之孫秀衡の三男泉三郎忠衡
 なり。文治五年七月源九郎判官義経養匿のため、罪ありとして
 大軍を率いて来るは、鎌倉の兄源右兵衛頼朝なり。忠衡初め出
 羽にあり、のちに花巻に来たり、義経を守護し、死と称して義
 経の郎等の擬首を鎌倉に送った。(以下、省略)
 ――『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』 勁文社刊より
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 これによると、忠衡は義経主従と一緒に平泉から北上し、久慈
地方に来ているのです。中野家には義経の書いたとされる大般若
経が掛け軸となって残っているといいます。やはり、義経は自害
などしていなかったのです。
 泰衡の首が金色堂の秀衡の遺体に寄り添うように置かれている
のは、泰衡が父秀衡の遺言を忠実に果たして義経を最後まで護り
非業の死を遂げたという同情の念が遺族にあったからと考えられ
ます。史実のように、秀衡の遺命に叛いて義経を討ち、頼朝に媚
びようとしてその頼朝に殺され、さらし首になったとしたら、遺
族は金色堂に祀ることを許したでしょうか。
 ひとつ不審なことがあります。
 義経が平泉入りしたのは文治3年秋ですが、それから5年まで
の間、朝廷や鎌倉から何回も使者がやってきて「義経を出せ」と
責めたてているのです。こういう事態に対して義経が何の策も立
てずに高館に潜んでいたとは考えられないことです。
 このまま平泉に居座れば、藤原家にとんでもない迷惑をかけて
しまうと考えたはずです。藤原家は、朝廷や鎌倉の使者が来るた
びに酒食を出して丁重にもてなしたのですが、絶対に屋外には出
さなかったといいます。
 しかし、そのとき実は義経主従は平泉には、いなかったのでは
ないでしょうか。なぜなら、もし、義経を高館にかくまいながら
朝廷や鎌倉の使者を饗応していたのだとしたら、あまりにも大胆
不敵な振る舞いということになると思うからです。そしてそれは
非常にリスクの多い行為です。
 佐々木勝三氏らは、文治4年5月には既に平泉を脱出していた
と考えています。このとき、朝廷より第4回の勅使一行が平泉に
到着していたのです。衣川の戦いよりも一年以上前の話です。
 ところで、自害したことになっている義経は、平泉に隣接した
衣川村の雲際寺という寺院に位牌が祀ってあるといいます。それ
は次のように書かれています。
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  損館通山源公大居士、文治五年閏四月二十八日源之義経
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 この死亡日は『吾妻鏡』とは一致していないのです。それにこ
の法名は変わっています。法名には故人に何らかの縁のある文字
が用いられるのが通常ですが、そういうこととは無関係な文字の
羅列です。そこで、次の読み方があるのです。
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 館を捨てて(損館)、山を通って(通山)、遁世(居士)す
                 ・・・・・・・[義経05]
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≪画像および関連情報≫
 ・平泉/中尊寺金色堂
  奥州に覇をとなえた藤原一族の権力の源泉は黄金にあったと
  いわれる。金色堂は天治元年(1124年)の造立で、中尊
  寺創建当初唯一の遺構である。

1635号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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