があるのです。衣川の戦いにおいて、須賀川の城主である須賀川
刑部が手勢200騎を従えて敵を探していたのです。そのとき、
竜頭兜に緋縅の鎧を着た立派な武者が榎堂の方に行くのが見えた
のです。
これぞ大将判官なりと考えた須賀川刑部が手柄にしようと追い
討ったのです。それほど義経に似ていたからです。しかし、捕え
てみると、杉田太郎行信だったというのです。『大木戸合戦記』
という本に次の記述があります。
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大将軍の首を頂戴しようとしてよくよく見れば、それは判官
殿ではなく、母方の従弟である杉目太郎行信である。刑部おお
いに驚くと同時に、判官殿にかわって討死する覚悟であるのを
雄々しく思い、太刀を捨てて礼をなし、士卒を従えて引き返し
た。 ――『大木戸合戦記』より
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ここで、義経を討ったとされる藤原泰衡という人物に注目する
必要があります。この泰衡は次の3つの点において大変評判が良
くないのです。
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1.父である秀衡の遺言を守らず、朝廷や鎌倉に屈して義経を
討っていること
2.泰衡は義経だけでなく、義経擁護を主張した弟の忠衡まで
殺していること
3.頼朝の命を果たしたのに泰衡追討の院宣が出ると頼朝に命
乞いをしている
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以上が正しいとされている歴史的事実ですが、よく調べると、
事実はかなり異なるのです。泰衡は父秀衡の遺言を忠実に果たし
ているという説があるのです。
結論から先にいうと、「衣川偽戦」こそが秀衡の遺言だったの
です。自分の死期を悟った秀衡は一族を集めて次のようにいい遺
しています。なお、この席には源義経を呼んでいます。
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1.自分の死後、必ず鎌倉殿は「判官失い奉れ」といってくる
が、日本の名将判官殿に叛いてはならない。
2.鎌倉殿から使者がきたら、まず、和睦をすすめる。それで
もお許しがないときは、使者を斬り捨てよ。
3.判官殿を大将軍と仰ぎ、白河、念珠の関を固め、奥州2国
の大軍をもって一致協力してこれに当たれ。
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秀衡はこういうと、全員に起請文を書かせ、血判を押させてい
るのです。さらに秀衡は、錦の袋に納めた遺書2通を出して、1
通は泰衡に、もう1通は義経に渡して、次のように述べているの
です。
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この錦の袋に納めたものは入道(秀衡)の遺書でござる。進退
きわまるときに開いて見られよ。卿らの胸中は雲霧を払うがご
とくひらけるであろう。 ――秀衡
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しかし、秀衡の死後、その子孫たちは秀衡の言いつけ通りにし
ていないのです。最初に義経を主君と仰ぐことに異議を唱えたの
は、長男でありながら側室の子であるということで嫡男になれな
かった国衡です。
これに対して、三男の忠衡は父の遺言を守ることにこだわった
のです。困ったのは泰衡です。泰衡は兄と弟の板ばさみになって
しまったからです。そこに、朝廷や鎌倉からは何回も「義経を差
し出せ」という矢の催促――窮した泰衡は義経を討つことを決断
したというのが、巷間伝えられている説です。三男の忠衡はこれ
に反発したので、忠衡も討たれたのです。
確かに話の筋は通っています。しかし、これに反対意見を唱え
ている人がいます。それは、「源義経=成吉思汗説」研究の第一
人者といわれる佐々木勝三という人です。佐々木氏は、同じ研究
家の2人とともに昭和52年に次の本を出しておられますが、こ
れは貴重な文献です。この本は現在では入手不能ですが、幸い私
は入手しております。
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佐々木勝三、大町北造、横田正二/共著
『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』 勁文社刊
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鍵を握るのは秀衡の遺した遺書です。この遺書の現物は発見さ
れていないのですが、佐々木氏は上掲書の中で、青森県八戸市の
小田八幡宮に秀衡の復元遺書があると述べています。そこには、
次のように書かれているというのです。
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敵の首を焼け首となして、これを君のニセ首となすべき御心得
なさしめたまへ。高館を御立ちのきなさしめたまわば、南部大
崎明神へ御参籠の上、大般若経御書写なされて二世の安楽の御
為に奉納なさしめたまうべし。(以下、略)
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少し読みにくいですが、秀衡は明らかに偽戦を勧めています。
つまり、衣川の戦いという偽戦を行い、義経を討ったことにして
その焼き首を鎌倉に届けて時間を稼ぎ、義経を落ち延びさせよと
いっているのです。
おそらく国衡が義経を主君と仰ぐことに反対したのは事実と思
われます。藤原氏として一致結束できないことを悟った泰衡は、
義経とともに遺書を開き、そこに書かれていることを忠実に実行
したものと思われます。
したがって、泰衡は、義経はもちろんのこと、忠衡も殺してい
ないのです。 ・・・・・ [義経04]
≪画像および関連情報≫
・『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』序文より
――佐々木勝三氏
従来の日本の歴史は、皇室を中心とした朝廷の歴史、もし
くは権力者を中心とした支配者側の歴史が絶対とされてき
た。本書は、成吉思汗という世界史上の一大権力者に焦点
を当てながらも、悲運の英雄源義経を見守りつづけてきた
みちのくの庶民から生まれた歴史なのである。

衣川の戦いは789年の出来事ですね。朝廷軍が三軍に別れ北上川対岸の賊と対峙し、副将以下クラスが攻め込み敗績してしまった戦いです。
この時の遺構を吾妻鏡や陸奧話記利用した物語を作り上げたものと考えらます。
阿津賀志山防塁と称される遺構も780年に造作開始785年には完成した防禦です。
衣川遺構発掘調査された方々は吾妻鏡を信じ、続日本紀など関心がないようです。本当に学者なの? 炭素14に依る年代測定を狂わす天体現象が775年に起きています。大量に炭素14が発生したので775年付近の炭素が含まれる物質の年代測定では近世側にシフトします。故に、9世紀頃の検体を12、13世紀の物と間違える可能性があるのです。
774年頃から天体異常があったと考えられます。
戎夷が騒ぎはじめ、田や畑が枯れ、戎夷の反乱が始まり、799年頃に收まっています。
いずれにせよ、文治年間の衣川で戦いはありません。