2005年07月13日

最初から偽首とバレていた証拠(EJ1633号)

 殺人事件において犯人を殺人罪で起訴するには、他殺死体が必
要です。鎌倉の頼朝の側から考えてみましょう。秀衡の死後、頼
朝は何回も藤原泰衡に対して「義経を差し出せ」とプレッシャー
をかけています。
 文治5年5月22日にその泰衡から、「4月30日に義経を誅
す」との飛脚が届きます。そして、6月13日、その証拠として
義経の首が酒を浸した黒い漆塗りの桶に納められ、鎌倉に送られ
てきたのです。
 4月30日に義経を殺害し、5月22日に鎌倉にそのことを知
らせる手紙を届ける――これは遅すぎます。そして、義経を殺害
してから43日後にその首を届ける――これも遅いです。
 現在の鉄道の計算では、平泉から鎌倉までは約500キロあり
ます。その内訳は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        東京――鎌倉   48キロ
        東京――平泉  450キロ
        ―――――――――――――
                498キロ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 500キロを里に直すと、130里です。当時の旅は歩くこと
が中心になるので、かなり早く歩いていたのです。平均して1日
8里〜10里は歩けたはずです。1日8里歩いたとして17日、
1日10里なら13日で平泉から鎌倉まで行けるのです。それが
実に43日もかかっている――誰が考えてもこれは遅すぎます。
 それに証拠の義経の首ですが、次の2つの理由によって義経と
判別不能と考えられます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.義経の首は焼き首であったこと
      2.当時は太陰暦/2ヶ月遅いこと
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 泰衡が義経主従を襲ったとき、義経主従は屋敷に火を放ってい
るのです。そのため義経の首は焼き首になったのです。加えて、
当時の暦は太陰暦であり、現在の太陽暦で6月13日は8月の初
めに当るのです。炎暑のなかを43日――果たして焼き首は原型
を保っていられるでしょうか。おそらくそれは不可能であると考
えられます。
 異常に遅い報告と証拠の首のさらなる遅い到着――疑り深い頼
朝がそれをまともに信用するはずがないのです。その証拠に首が
届いてから1ヵ月後には泰衡討伐の大軍を平泉に差し向けている
からです。それは、泰衡による衣川の戦いそのものを偽戦と見抜
いていた証拠といえます。
 これに関して『大日本史』は次のように記述しています。『大
日本史』は、水戸光圀以来、250年にわたって、歴代の水戸藩
主が各時代の大学者だけを集めて編纂した397巻の大著作なの
です。たとえ1行の文章でも多くの学者の目にさらされ、検討を
繰り返して生まれたものであり、重みがあるのです。
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 世に伝う。義経は衣川の館に死せず、逃れ蝦夷に至ると。いわ
 ゆる義経の死したる日と、頼朝の使者、その首を検視したる日
 と、その間へだたること43日、かつ天時暑熱の候なるをもっ
 て、たとえ醇酒にひたし、またこれを函(かん)にすといえど
 も、この大暑中、いずくんぞ腐爛壊敗せざらんや。また誰か、
 よくその真偽を弁別せんや。しからばすなわち、義経死したり
 と偽り、しかして逃走せしらんか。
                   ――『大日本史』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 義経の首の検視の状況について、もう少し詳しく述べておくこ
とにします。
 泰衡の使者は新田冠者経衛、6月13日に首の入った桶を2人
の従僕に担がせて、鎌倉・腰越浦に到着したのです。頼朝は、和
田義盛、梶原景時に実検役を命じたので、義盛と景時は兜を着け
郎従20騎を従えて検視におもむいたのです。
 景時は「予州の首ではない。不審の点がある」と難色を示した
のですが、義盛はこれを制して「すでに焼き首となった以上は日
頃とは違って見える」として、それ以上の検視を行わず、その首
を藤沢に送って葬っているのです。
 これは、江戸末期に出た『義経勲功記』という本に出ているの
ですが、これから推察して、頼朝側は最初から偽首と知っていた
と考えられるのです。和田義盛は、智臣として名高い因幡守大江
広元から指示を受けており、偽首であることは想定内の出来事と
して処理したのです。頼朝側としては、目的は奥州平泉を取るこ
とにあったからです。
 私の推測ですが、頼朝としては、義経主従が蝦夷地に逃げて行
くのをあえて見逃したのではないかと考えます。頼朝が最も恐れ
たのは、秀衡が義経と組んで、義経を総大将として鎌倉に攻めて
くることだったのです。秀衡の率いる奥州平泉の財力と兵力に義
経の知略が加わると鎌倉が危ないと考えたのです。
 しかし、秀衡亡き後はたとえ義経が生き延びてもとくに恐れる
ことはないと考えたのです。したがって、首の検視にあえて異議
を唱えず首を葬れば、義経は正式に死んだことになり、鎌倉勢と
してはこれ以上義経を探し回る必要もなくなる――義経の兄とし
ての頼朝の本心はこんなところにあったのではないでしょうか。
 偽首にする以上、身代わりが必要になります。義経の身代わり
は、杉目太郎行信であるとされています。延宝年間の『可足記』
に次の記述があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 九郎判官の身代わりには一家の内、杉目太郎行信が致し、行信
 が首、鎌倉の見参に入候          −−『可足記』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 杉目太郎行信、義経によくも似ていたのです。  [義経03]

≪画像および関連情報≫
 ・藤原秀衡について
  藤原秀衡は、平泉を拠点にした、奥州藤原氏の三代目。後三
  年の役の後、藤原氏繁栄の基礎を築いた初代・清衡。続く二
  代・基衡の後を受け、秀衡の時代に藤原氏の栄華は頂点を極
  めた。幼少期の源義経を育て、長じて源頼朝と不和になって
  からも義経をかくまう。子の泰衡に義経を大将軍とするよう
  遺言を残して没す。東北の王者して奥州に君臨。

1633号.jpg
posted by 平野 浩 at 09:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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