2023年11月15日

●「竹中大臣のやったことは正しいか」(第6046号)

 速水優日銀総裁は、就任が1998年3月、退任が2003年
3月までです。その頃になると、政府と日銀との関係は相当ギャ
クシャクしたものになっていったのです。2000年8月のゼロ
金利解除によっても景気は回復しないし、2001年3月に量的
緩和を導入したものの、日本経済はデフレの泥沼に沈んで、なか
なか脱却できないでいたからです。
 そして福井俊彦氏が日銀の総裁になると「ミセス・ワタナベ」
が話題になります。当時日本の政策金利は0・5%という過去最
低水準にあり、そのため世界経済は、日銀にある取引の片棒を担
がせつつあったのです。これについては後で述べます。
 経済の低迷は相変わらずで、日銀としては、資金供給の目詰ま
りと見定めています。つまり、日銀がいくら資金を供給しても、
日銀当座預金が積み上がるだけで、不良債権に苦しむ金融機関は
どうしても融資を伸ばせない状態だったのです。
 当時は小泉純一郎政権であり、郵政民営化の実現に挑んでいた
のです。小泉首相は派閥を完全に無視した人事を行っており、閣
僚にはユニークな人材も多くいました。そして「改革なくして成
長なし」が小泉政権の旗印であります。
 その閣僚の一人に竹中平蔵氏がいます。竹中大臣の正式な名称
は「内閣府特命担当大臣(金融経済財政政策)」です。これは、
ある特命を有する大臣であり、小泉首相の意見を聞いて、実行に
移す任務を帯びています。重要任務です。
 竹中平蔵大臣は、日本経済のために、実に素晴らしい仕事を成
し遂げており、日本経済のバブルの後始末を周囲が猛然と反対す
るなかでやり遂げています。しかし、そういう大仕事をした竹中
平蔵氏の評判は必ずしも良くないのです。
 一体彼は何をしたのでしょうか。
 竹中大臣は、当時の日本の大手銀行の不良債権比率は8・4%
でしたが、これを2年半で半減させる「金融再生プログラム/竹
中プラン」を打ち出し、それを敢然と実行したのです。多くの反
対がありましたが、権限は小泉首相から得ており、それを使った
のです。彼は政治家ではなく、学者であり、普通の永田町の常識
にはとらわれず、やる必要のあることを断行しています。
 2003年4月のことです。日経平均株価はバブル崩壊後の最
安値7607円を記録します。りそなショックです。政府はこれ
に対して、りそな銀行への公的資金投入が発表されると、それま
での下落を打ち消すかのように急回復したのです。そうです。日
本経済に薄明かりが見えるようになったのです。政府が電撃的に
りそな銀行に公的資金を注入する再建策を発令し、これに対応し
たのです。
 政府が銀行に公的資金を注入することは、その銀行を国有化す
ることを意味します。銀行としては、当然のことながら、はげし
く反対し、抵抗します。なぜかというと、りそな銀行は自己資本
を積んでいなかったわけではなく、監査法人からのアドバイスを
受けて対応していたからです。竹中大臣は、専門家であり、その
内容を厳正監査するよう監査法人に求めたのです。
 監査法人はこれをやっていなかったといわれます。もし、国有
化が強行されると、当然監査法人もただでは済まなくなります。
こういうやり取りが毎日テレビで報道され、何か大変なことが起
きていると国民は感じたものです。EJの発刊は、1998年の
ことですから、この問題を取り上げています。りそな銀行は自己
資本をどのように処理したのでしょうか。河浪武史氏は、次のよ
うに述べています。
─────────────────────────────
 りそなの実質国有化の引き金となったのは、監査法人の厳格監
査だった。りそなは不良債権処理に伴う税金の先払いを「繰り延
べ税金資産」として自己資本に計上していた。「竹中プラン」は
その内容を厳しく監査するように求めていた。国内銀行であるり
そなの自己資本比率は4%を上回れば間蓮がなかったが、200
3年5月の連休明けになって監査法人から過大計上の可能性があ
ると指摘がなされる。
 竹中氏がそうした動きを知ったのは、5月7日だったという。
自己資本比率が4%を切ることになれば、預金保険法にしたがっ
て公的資金の注入が必要になる。竹中氏は小泉首相にりそなへの
公的資金注入の了解を内々に得て、事務方にも水面下で実質国有
化を準備するよう指示する。──河浪武史著/日本経済新聞出版
         『日本銀行/虚像と実像/検証25年緩和』
─────────────────────────────
 しかし、りそな銀行はなかなか認めない。しかし、竹中大臣は
監査法人の決断を促すために監査法人に対して、「過去の監査と
の食い違いについての責任は問わない」というメッセージを送り
監査法人は最終的にはりそなが求めていた繰り延べ税金資産の5
年分の計上を認めない判断を下しています。
 政府は「金融危機対応会議」を開いて、りそなへの公的資金の
注入を決定しています。このように、必要だと思ったら、どんな
手段でも使って目的を果たすというのが竹中平蔵氏のやり方であ
り、とても冷たいように感ずるが、現在のりそなを含めて日本の
銀行の状況を見ると、やはりあのときの処置は間違っていなかっ
たのであると確信を持てるようになってきています。
 「竹中プラン」は、主要銀行の不良債権比率を2年半で半減さ
せるというものでしたが、2005年3月期には前倒しで目標を
達成しています。これによって、バブル経済の処理にしっかりと
したメドが立ち、少しずつではあるものの、景気も回復しつつあ
ったといえます。
 これによって、生み出されたのが円安トレンドです。この円安
トレンドに乗って、「ミセス・ワタナベ」が増殖を始めることに
なります。この「ミセス・ワタナベ」とは一体何者なのでしょう
か。具体的な人物なのでしょうか。それとも何らかの経済現象な
のでしょうか。次回のEJで解明します。
           ──[物価と中央銀行の役割/056]

≪画像および関連情報≫
 ●不良債権処理後の日本「疲れるほど改革せず」竹中平蔵
  ───────────────────────────
   りそなグループへの公的資金の投入が決まってから20年
  金融システムの安定を取り戻すために当時の関係者は、何を
  考え、どのように行動したか。小泉純一郎政権で金融担当相
  として不良債権処理を主導した竹中平蔵慶大名誉教授に聞い
  た。
  ――第1次小泉内閣が2001年に発足しました。不良債権
  の処理が進まず、どう解決するかに<焦点が当たりました。
  「バブル崩壊後に日本経済が低迷したのは、当面の需要拡大
  のみを行ってバランスシート調整をしっかりやらなかったか
  らだ。世界2位の経済規模だった日本の政府が不良債権をき
  ちんとwrite-off(処理)しなければ、世界が日本をwrite-
  offするという危機感が広がっていた」
   「経済財政担当相に就任して最初に『骨太の方針』を作っ
  たときも『不良債権の処理が一丁目一番地』と書いた。本来
  やるべき処理が10年以上遅れてしまっていた。私は学者と
  して理屈で考えていたが、小泉首相も同じように判断してい
  た」
  ――翌年に金融担当相を兼務して「金融再生プログラム」を
  打ち出すことで銀行に徹底した不良債権処理を迫りました。
  銀行からは猛烈な批判もありました。どういう考えで銀行と
  対峙したのでしょうか。
   「私がやったのは大胆なことではなく普通のことだ。資産
  査定をしっかりやって不良債権がどれだけあるのかを明確に
  したうえで資本不足なら増強してもらう。それができない金
  融機関には場合によっては公的資金の注入も選択肢だった」
        ──2023年5月16日/日本経済新聞より
  ───────────────────────────
竹中平蔵慶応大学名誉教授.jpg
竹中平蔵慶応大学名誉教授


posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 物価と中央銀行の役割 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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