2023年07月13日

●「狂乱物価の原因について検討する」(第5994号)

 「狂乱物価」について考えてみます。正しくいうと、インフレ
は2回起きています。1973年10月、中東産油国が原油価格
を70%引き上げたことを受けて、インフレが発生しています。
このインフレを「第1次オイルショック」と呼んでいます。この
とき、日銀はインフレを抑えるため、公定歩合(政策金利)を9
%まで引き上げています。金融を引き締めたのですから、景気が
悪化し、不況に陥っています。
 その後、1970年から1980年初頭にかけて、原油価格は
再び高騰します。1978年にOPEC(石油輸出国機構)が段
階的に原油価格の大幅値上げを実施したことに加え、1979年
2月のイラン革命や、1980年9月に勃発したイラン・イラク
戦争が影響して、国際原油価格は約3年間で2・7倍に高騰しま
す。これが「第2次オイルショック」です。このときもインフレ
が発生し、国内景気が減速しています。
 狂乱物価に関する記事を読むと、インフレの原因は、明らかに
中東産油国による原油価格引き上げとしています。しかし、原油
価格引き上げだけでは、インフレは起きないはずです。渡辺努教
授は、次のモデルで説明を試みています。
 毎月10万円で暮らしている家庭があったとします。そこにガ
ソリンなど石油関連製品の価格が急上昇したとします。住んでい
る地域によっては、ガソリンが不可欠な人もいますが、その家庭
は、ガソリンの高騰分をいつも購入している商品を少し減らすこ
とによって、何とか10万円の収入以内に収めようと努力するは
ずです。これらの個々の消費者の行動変化は微々たるものであっ
ても、この行動を大勢の人がとったとすると、それは大きな消費
行動の変化につながるはずです。その結果について、渡辺努教授
は、次のように述べています。
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 多くの家庭が同様の節約を行うことを考えたとき、石油関連以
外の各商品に対する需要は、それぞれ少しずつ減少し、その結果
それらの商品の価格もそれぞれ少しずつ低下します。つまり、石
油関連製品の価格上昇は、多くの消費者の節約行動を通じて、広
い範囲にわたる商品の、小幅な需要減と小幅な価格低下をもたら
します。石油関連以外の商品の価格低下は、個々にみれば、小さ
な、目立たないものですが、幅広い商品で起こるので、それなり
のインパクトがあります。そして、これが石油関連製品の価格上
昇をかなりの程度、相殺し、その結果、原油価格が急騰しても物
価はさほど上がらないということが起こるのです。
   ──渡辺努著『物価とは何か』/講談社選書メチェ758
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 原油価格が上がったからといって、いきなりインフレが起きる
わけではないのです。1973年11月、大阪市のスーパーで発
生したトイレットペーパー買い占め騒ぎが報道されたことをきっ
かけに、日本中の小売店の店頭から洗剤、砂糖、塩、醤油までも
が消えましたが、これは政府の大きなミスであるといえます。
 1973年10月中旬のことですか、当時の中曽根通産大臣が
テレビ番組内で「紙の節約」を呼びかけたことから、10月下旬
にかけて「紙がなくなるらしい」という噂が全国に広まったとい
われています。担当大臣がこういうことを不用意にいうと、生活
にかかわることだけに、大きな騒ぎに発展してしまうのです。
 「狂乱物価」の起きた日本の時代背景について考えてみる必要
があります。当時は田中角栄内閣であり、いわゆる「日本列島改
造論」によって、日本中に大量の財政資金がばらまかれていたと
きだったのです。そしてもうひとつ、1973年2月14日に円
が変動相場制に移行しています。それ以前は、「1ドル=360
円」の固定相場制であったのです。
 このとき、一部の商社や金融機関は、変動相場制になると、円
高になると見込んで、ドル売り円買いの取引を増大し、円を蓄え
ようとしていたのです。日銀はそうした動きに呼応し、大量のド
ルを買い取って、円を市場に放出するというオペレーションを実
施します。事実、変動相場制に移行した直後のドル/円相場は、
「1ドル=265・8円」の円高になっています。
 ノーベル賞を受賞した経済学者であるミルトン・フリードマン
氏によると、通貨供給量が増えれば増えるほど、インフレはます
ます上昇するといっており、狂乱物価は、日銀によるドル買いと
政府の財政政策の2つによって、中東戦争前夜の日本経済は、貨
幣供給が過剰になっていたのです。これがインフレの原因です。
 なお、狂乱物価については、嘉悦大学教授の高橋洋一氏も自著
で次のように述べています。
─────────────────────────────
 「狂乱物価」とは、1973年から2〜3年にわたって、物価
が2ケタの上昇率で高騰したことをいいます。1974年には消
費者物価指数が前年比23・2%も上昇しました。
 20%の物価上昇といえば、前年には1000円だったものが
たった1年で1200円になることを意味します。これは大変な
ことで、同年の実質国内総生産(GDP)成長率は、戦後初めて
マイナスとなりました。それまで猛烈な勢いで続いてきた高度経
済成長は、ここに終わりを迎えることとなったのです。
 なぜ、このような「狂乱物価」が起きたのか。1973年10
月に起きた石油ショックと結びつけて考える人が、かなりいらっ
しゃるようですが、これは理由の1つにすぎません。
 実は、その前からすでに物価は急上昇していたのです。ちょう
ど固定相場制から変動相場制に移り変わる時期で、為替維持のた
めにマネーが大量に市中に供給されていたため、物価が上がった
ことが主因でした。石油ショックはそれを強めてしまっただけに
すぎません。狂乱物価は、主として貨幣現象によって起こったも
のです。       ──高橋洋一著『戦後経済史は嘘ばかり
      /日本の未来を読み解く正しい視点』/PHP新書
─────────────────────────────
           ──[物価と中央銀行の役割/004]

≪画像および関連情報≫
 ●田中角栄内閣と石油危機─灯油がつなぐグローバル経済
  と選挙区/佐藤 晋氏
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   1972年に成立した田中角栄内閣は列島改造を掲げて登
  場し、日中国交正常化を実現したが、翌年秋には石油ショッ
  クに遭遇し、困難な対応を迫られた。その際、田中は、資源
  への脆弱性意識から積極的・自主的かつ性急な資源外交を展
  開した。しかし、その一方で、彼が国内での物価上昇抑制に
  対して積極的に価格統制を行った事実は、あまり知られてい
  ない。しかし、むしろ田中は、本稿で見るように、国際社会
  で生じた問題を外交的手法で解決しようとしたのではなく、
  国内に持ち込んで、各利益集団間の「所得の移動」によって
  解決させるという手法を得意とした政治家であった。したが
  って、田中の政治的本領は、外交面ではなく、内政面で発揮
  されたと言って良い。もちろん原油の輸入量という「量の確
  保」には外交的手段を尽くしたが、その効果のほどは明確化
  しづらい。その一方で、価格上昇を抑制しようとする田中の
  試みは再現することができ、十分に評価可能である。
   そこで本稿では、田中政治の本質を知るために、1973
  年から翌年にかけての第1次石油危機に際して、田中がどの
  ような国内政策をとったのか、とりわけ原油価格上昇の物価
  への悪影響をどのように取り除こうとしたのかについて分析
  していく。
  ───────────────────────────
第1次石油危機と第2次石油危機.jpg
第1次石油危機と第2次石油危機
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 物価と中央銀行の役割 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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