体のことを書いています。メタバースが成功するかどうかも、日
本経済が立ち直れるかどうかについても、半導体と無関係ではな
いからです。本日で18回目です。
「チップ4」という米国主導の枠組みをご存知ですか。
これは、特定国家──中国のことですが、半導体から中国を排
除しようという意図を持つ考え方です。もっとわかりやすくいう
と、米国主導で、日本、韓国、台湾をまとめ、一種の「半導体同
盟」を作ろうという試みです。
米バイテン政権がこの枠組みを提案したのは、世界の半導体生
産の8割がアジアに集中しており、それが、米国半導体の弱点に
なっていることに気が付いたからです。半導体生産に関しては、
米国は10%のシェアしか持っていないのです。
─────────────────────────────
◎半導体生産の8割はアジア集中
韓国 ・・・・・・ 24%
台湾 ・・・・・・ 23%
中国 ・・・・・・ 15%
日本 ・・・・・・ 14%
米国 ・・・・・・ 10%
欧州 ・・・・・・ 5%
その他 ・・・・・・ 9%
https://bit.ly/40nNeyt
─────────────────────────────
半導体生産のシェアで重要なのは、韓国と台湾で47%を生産
していることです。約半分です。とくに台湾は、世界最大のファ
ウンドリのTSMCを中心に米国半導体の多くを作っているとこ
ろです。この状況で、もし、台湾有事で中国が台湾に侵攻し、手
中に収めたら、何が起きるでしょうか。中国側にサプライチェー
ンを握られてしまい、国家の安全保障、軍事防衛を考えると、そ
れは米国の危機そのものといえます。
かつての日本は半導体生産に圧倒的に強く、1988年には世
界の半導体生産の50%以上を占めていたのです。その日本が今
や中国にも抜かれており、世界第4位に転落しています。一体何
があったのでしょうか。
これについて、東洋経済・解説部コラムニストである山田雄大
氏は、次のことを指摘しています。
─────────────────────────────
1940年代後半に、半導体を発明したのはアメリカだ。19
80年代にそのアメリカに日本は半導体の製造で勝った。それは
1970年代に日本が新しい技術を作ったからだ。たとえば、ク
リーンルームという概念を生み出した。アメリカでは製造現場に
靴で入っていたが、日本では清浄な環境で造らないと不良品が出
るとクリーンルームを作った。半導体の基本特許はアメリカ発か
もしれないが、LSI(大規模集積回路)にしたのも日本だ。私
たちの先輩がゼロから切磋琢磨しながらやった。
もう1つ大事なことがある。マーケットがあったことだ。当
時日本の大手電機は、みんなNTTファミリーで通信機器やコン
ピュータを造っていた。半導体は自社の通信機器やコンピュータ
の部門が大口顧客だった。自社のハードを強くするために強い半
導体がいる。通信機器部門やコンピュータ部門にとって、自社で
半導体部門を持つメリットがあった。各社がよりよいコンピュー
タを作ろうと競い合った。自社の大口顧客に応えるために、半導
体部門も開発に力を注いだ。半導体を利用する顧客が近くにいる
ことでよいものができた。それを外に売れば十分に勝てた。19
80年代から90年代の初頭まではね。
https://bit.ly/3M1KWAM
─────────────────────────────
それほど天下無類であったの日の丸半導体が、なぜ崩壊してし
まったのでしょうか。
それは、マーケットが通信機器からPC(パソコン)に変わっ
たことが原因です。それも各社独自仕様のPCを作っていたとき
はまだ良かったのですが、1981年からのIBM互換機の時代
になると、半導体は良いものを作るというよりも、同じものをい
かに安く作るかの競争になったのです。
当時の日本としては、NTT仕様の自社通信機器向けの半導体
は35年の世界で、設計、プロセス、品質管理もその水準でやっ
ており、PC向けについても同じサービスを提供したのですが、
そのとき必要とされたものは、品質よりも安さだったのです。当
時のPCは数年持てばよいと考え方であったといいます。
もう1つ原因があります。日本は、技術振興のための国家プロ
ジェクトが上手ではないということです。国産コンピュータ製作
国家プロジェクト「TAC」が、個人で製作した富士写真フィル
ムの「FUJIC」に敗れています。その理由について、山田雄
大氏は「半導体部門が決定権を持っていない」として、次のよう
に訴えています。
─────────────────────────────
半導体部門自体が決定権を持っていないということは、国プロ
が成功しないという問題だけにとどまらなかった。投資などを決
めるのは本社様で、半導体のマーケットをわかっている人間が、
(投資の)賭けに打って出ることはほとんどできなかった。しか
も、半導体が儲かったときは(利益を)全部吸い上げられるし、
損をしたときは(事業を)止めろと言われる。
欧米では1990年代に半導体事業が総合電機からスピンアウ
トした。日本でそれが起こったのは2000年になってからだ。
そうしてできたのがエルピーダ(メモリ)とルネサス(エレクト
ロニクス)の2社だが、意思決定が10年以上遅かった。
https://bit.ly/3ZnELK3
─────────────────────────────
──[メタバースと日本経済/053]
≪画像および関連情報≫
●日本が半導体戦争に惨敗した真因ーーソフト開発軽視
が致命傷に
───────────────────────────
1954年、東京通信工業(現ソニー、以下:東通工)で
テープレコーダーの製造部長を務める岩間和夫氏が、米国ペ
ンシルベニア州にあるウエスタン・エレクトリック(WE)
社を訪れた。
多くの人にとってウエスタン・エレクトリックはまだ聞き
慣れない名前かもしれないが、傘下にかの有名なベル研究所
を抱えている。世界のチップ産業の土台をなす「トランジス
タ」はベル研究所で発明された。1952年、ちょうど米国
を視察中だった東通工の創業者・井深大氏はトランジスタが
テープレコーダーの開発に活用できると考え、2万5000
ドル(当時のレートで約900万円)でトランジスタの特許
使用契約を結んだ。しかしこの決断は社内から猛反対を受け
る。トランジスタを発明した米国人でも作れないのに、日本
人が製造できるはずはないというのだ。井深氏が買い取った
特許権には、技術の詳細や製造方法は含まれておらず、どう
作るかも分からないものの図面に大枚をはたいたようなもの
だった。当時、東通工にあった唯一の資料といえば、同じく
創業者の盛田昭夫氏が米国から持ち帰った書籍「トランジス
タ技術」3冊のみだった。途方にくれていたとき、前出の岩
間氏がトランジスタ研究のため米国に赴くことを申し出る。
米国ではウエスタン・エレクトリック社の職員が家族のよう
に喜んで迎えてくれたものの、写真撮影やノートをとること
は一切許されなかった。 https://bit.ly/42MOaxT
───────────────────────────
IC(集積回路)


