2023年03月02日

●「日本初のコンピュータ/FUJIC」(第5917号)

 巨額な予算を獲得し、華々しくスタートを切った国家プロジェ
クト「TAC」はなかなか動き出さなかったのです。これとは別
に、たった一人で自らの仕事を能率的に進めるために、コンピュ
ータの開発に取り組んだ人物がいます。岡崎文次氏(1914〜
1998)です。
 岡崎氏は、1949年当時、富士写真フィルム小田原工場に勤
務し、レンズ設計課長を務めていたのです。1948年のことで
す。岡崎氏は『科学朝日』に掲載されていたIBMのコンピュー
タ「SSEC」の記事を読み、機械による即時の大量計算が現実
になったことを悟っています。なお、SSECとは、IBMが開
発した電気機械式計算機のことです。SSECは、次の英語の頭
文字をとったものです。
─────────────────────────────
    ◎SSEC
     Selective Sequence Electronic Calculator
─────────────────────────────
 岡崎文次氏の仕事はカメラレンズの設計です。レンズの設計に
は複雑な計算が必要で、とくに高級レンズになると、計算だけで
数カ月もかかってしまいます。とくに必要な三角関数の計算では
数十人の人間が数表などで計算に取り組むことになるので、とて
も効率が悪かったのです。
 海外のコンピュータを使えば問題は解決できる──岡崎氏はそ
う考えたものの、当時コンピュータは世界に数台しかなく、購入
は不可能。岡崎氏は、自分で作るしかないと考えたのです。
 幸い岡崎氏は、数学が難しいことで有名な第八高等学校(旧制
・後の名古屋大学教養部)の出身で、数学には強く、コンピュー
タの理屈はわかっていたので、会社に対して、コンピュータ開発
の必要性を説く次の提案書を提出したのです。
─────────────────────────────
      「レンズ設計の自動的方法について」
                 ──岡崎文次
─────────────────────────────
 この提案書は認められ、研究予算として、会社から20万円が
支給されたのです。ENIACの開発成功の約3年後、1949
年3月のことです。
 このとき、富士写真フィルムとしては、岡崎氏がまさか一人で
コンピュータを開発しようとしているとは考えていなかったと思
います。しかし、提案書の内容はきわめて秀逸であったので、研
究予算をつけたものと思われます。
 研究予算がついても岡崎氏は、あくまで自分1人で海外から資
料を集め、自分の本業以外の時間を使って、一人でコツコツとコ
ンピュータを組み立てていったといいます。その開発状況につい
てウィキペディアは次のように紹介しています。
─────────────────────────────
 岡崎は研究・開発作業を業務時間には行わず、本来の仕事の合
間や休暇日を使った。開発の際、モデルにした機種は特になかっ
た。まず、海外の雑誌記事や論文を収集したが、当時は文献がま
だ数少なかったため、かえって調査に余計な時間が出なかった。
 大阪大学の城憲三研究室から文献の一覧表を送ってもらったり
進駐軍が作ったCIE図書館で文献を撮影して読んだりしたとい
う。部品は神田須田町の露店で購入。経費もまとめて高額で請求
すると会社が驚くため、できるだけ安く小刻みに申請していた。
 半年に数十万円ほどだったという。手伝ってもらったのは女性
計算手一人だけで、一人開発のため、意見調整で時間を取られる
こともなかった。社内ではよくも悪くも、さっぱり注目されず、
かえって余計なプレッシャーがかからなかった。
       https://bit.ly/3KJuXXe  ──ウィキペディア
─────────────────────────────
 この開発のいきさつは、ノーベル物理賞受賞者の中村修二氏が
自身が務めていた日亜化学工業において、青色発光ダイオードを
開発したいきさつとよく似ていると思います。当時の社長(現社
長はその子息)に、中村修二氏は、青色発光ダイオード開発の意
義を説き、米国留学とわずかな研究開発費を受け取り、ほとんど
一人で青色発光ダイオードの開発に成功しています。
 岡崎文次氏が手掛けたコンピュータがどのようなコンピュータ
かについては、明日のEJで述べることにしますが、このマシン
は1956年に3月に完成し、「FUJIC」と名付けられたの
です。この時点で国家プロジェクトの「TAC」はまだ動いてい
なかったので、「FUJIC」が日本最初のコンピュータの栄誉
を担うことになります。しかし、このことを、どのくらいの人が
知っているでしょうか。
 このことについて、角川アスキー総合研究所の遠藤諭氏は、次
のようにコメントしています。
─────────────────────────────
 さて、このFUJICだが、日本のコンピュータの歴史におい
てどんな位置づけにあるのかを調べてみることにした。と、すぐ
に不思議な位置づけにあることがわかった。日本初の栄誉ととも
にコンピュータ史上に燦然と輝いていておかしくはないし、少な
くともコンピュータに関わる人たちの間では周知の機械となって
いて当然なのに、なぜかFUJICは国産コンピュータの初期の
状況を伝える文献を見ても前面に出てくることが少ない。歴史の
片隅に埋没してしまいそうでさえある。
 この不当な歴史的評価は、どんな理由からなのか。それはおそ
らく、ほぼ同じ時期の開発プロジェクトが国家予算を使った公の
ものであったのに対して、FUJICが一企業の一部署で細々と
作り上げられたものであったからなのだろう。けれども、ほかの
コンピュータがなかなか動かない中で、FUJICが確実に稼働
していたのは事実なのである。    https://bit.ly/3IE4Qyf
─────────────────────────────
           ──[メタバースと日本経済/033]

≪画像および関連情報≫
 ●コンピュータ開発史概要と資料保存状況について
  ───────────────────────────
   コンピュータの研究開発は欧米においては第二次世界大戦
  中に急速に進展した米国のペンシルバニア大学で弾道計算を
  主目的として、真空管18000本を使用したコンピュータ
  ENIACが1943年から開発され、1945年に完成し
  稼動を開始したが、軍事目的であったため、終戦の翌年19
  46年に始めて公表された。これが世界最初のコンピュータ
  とされているが、プログラムは外部制御方式で内蔵方式では
  なかった。
   1949年にはプログラム内蔵方式としては始めてのコン
  ピュータEDSACが、英国ケンブリッジ大学で開発され、
  以降はこの方式のコンピュータが、<表2・1>に示すよう
  に次々と開発された(3)。1948年のトランジスタの発
  明以降は、トランジスタ式コンピュータの研究開発が進み、
  1950年代後半にはその実用化が行われた。
   日本では戦前および戦時中に計算機械の研究は行われてき
  たが、コンピュータ(電子計算機)の研究開発は終戦後開始
  された。1950年前後に大阪大学、富士写真フィルムおよ
  び東京大学で、真空管式コンピュータの開発がほとんど時を
  同じくして開始された。大阪大学の城憲三は「ニューズウィ
  ーク」1946年2月号のEDSACの紹介記事を見て、コ
  ンピュータの具体的な研究開発を開始した(4)。
                  https://bit.ly/3mfv0Qs
  ───────────────────────────
FUJIC.jpg
FUJIC
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | メタバースと日本経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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