ように感じます。とくにメジャー選手で唯一キャンプに参加して
いる、ダルビッシュ選手が、投手たちにカーブやフォーク、ツー
シームやスライダーの投げ方をていねいに教えている姿が印象に
残っています。ITなどの真の技術の指導は、このようにOJT
であるべきと思います。
2月7日、MRJから撤退を決めた社三菱重工業の泉沢清次社
長は次のようにいっています。
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大きく二つの視点がある。初期の段階で開発の規模の見積もり
手間のかかり方ということが、正直言って少し甘かったのではな
いか。そこの段階でのリソースの確保が足りなかったのではない
かというのが一点ある。もう一つは、単に頭数が足りないという
ことではなくて、経験を持ったエンジニアが我々にいなかった。
おそらく日本の中にいなかった。それで海外の経験のあるエンジ
ニアを投入したということ。その意味で、足りないリソースにつ
いて、いろいろと手は尽くしてきたと思うが、それは十分ではな
かった。 ──泉沢清次三菱重工社長
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「経験を持ったエンジニアが我々にいなかった。おそらく日本
の中にいなかった」と泉沢社長は嘆いています。三菱重工といえ
ば、かつて天才航空機設計者、堀越二郎を擁し、彼の手になる戦
闘機九六式艦上機(ゼロ戦)を開発した名門ですが、そのDNA
が残っていなかったようです。そうさせたのは、間違いなく米国
であり、日本の技術を恐れて、日本には一切の航空機を製造させ
なかったのです。
ゼロ戦といえば、日中戦争から日米戦争の初期に関しては、向
かうところ敵なしで制空権をほしいままにした戦闘機です。なお
堀越二郎については、2013年のジブリ映画『風立ちぬ』で描
かれています。
ゼロ戦が戦闘機としていかに優れていたかについては、機銃配
置にあります。ゼロ戦の武装は、左右の主翼に20ミリ機関砲を
各1門に加え、最前方にあるエンジンのすぐ後ろ、胴体の上部に
7・7ミリ機銃が2門設置されています。問題は後者の胴体機銃
に関してです。この機銃は、発射時にプロペラの回転面を弾丸が
通過することになります。弾丸がプロペラにぶつかってしまった
から大変なことになります。
ゼロ戦では、この難問を解決しているのです。同調発射装置と
いいます。開発者は深海正治氏という人物です。また、松平精氏
という人物は、ゼロ戦の飛行時の異常な振動を制御することに成
功しています。ゼロ戦にはこのように多くの光る技術が凝縮され
ているのです。
ところで、なぜ、弾丸がプロペラにぶつからないかというと、
「プロペラにぶつからないよう機銃から弾丸が出るタイミングを
調整している」からです。つまり、プロペラの隙間を縫って、弾
丸が通り抜けるようエンジンの回転速度と機銃の発射速度が調整
されているのです。驚くべき技術です。
しかし、米国は日本のこの驚くべき技術を知っており、終戦後
の昭和20年11月18日、GHQ(連合国占領軍総司令部)の
命により、民間機の航空活動も含め、航空機の生産、研究、実験
を初めとして一切禁止したのです。運輸省航空局も廃止され、大
学の航空学科および航空研究所などもすべて廃止され、日本の空
には模型飛行機すら舞うことがなくなったのです。
しかし、米国から航空機の研究・開発を禁じられた深海正治氏
は、分野の全く異なる医療現場で内視鏡を設計し、胃カメラを世
界で初めて実用化しています。また、松平精氏は、新幹線の振動
を制御する台車を設計しています。
GHQの禁止命令も解けた約10年後の昭和31(1956)
年のことです。堀越二郎氏は当時の通産省からオファーがあり、
秘密のプロジェクトに従事しています。それから8年後の、昭和
39年(1964年)、日本初の国産旅客機「YS11」が飛行
に成功したのです。堀越二郎の設計によるものです。YS11は
日本航空機製造が製造した双発ターボプロップエンジン方式の旅
客機で、第二次世界大戦後に初めて日本のメーカーが開発した旅
客機です。
「YS11」は、普通「YSじゅういち」と読みますが、正し
くは「YSいちいち」です。その理由は、次の通りです。
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「YS」は輸送機設計研究協会の「輸送(YUSOUKI)」
と「設計(SEKKEI)」の頭文字の「Y」と「S」をとり、
「YS」とした。「11」の最初の「1」は搭載を予定した各種
候補エンジンごとにとった資料ナンバーで、「ダート10」の番
号の「1」であった。後ろの「1」は検討された機体案の番号を
表し、主に主翼の面積や位置によって第0案、第1案となって、
「1」とし、「YS11」と命名された。
https://bit.ly/3xN8Mb7
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しかし、「YS11」は、2006年をもって日本においての
旅客機用途での運航を終了しています。そして、2023年2月
7日の三菱重工の「スペースジェット」の開発中止、事業からの
撤退──堀越二郎のDNAは残っていなかったようです。堀越二
郎は、次のようにいっています。
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飛行機は非常に高級な総合工業であり、これに包含される技術
の発達を促進してやみません。日本が将来、本当の文明国に進む
ためには、高度の工業であるとともに、規模の大きいものも持た
なければならない。それには航空機が有望だと思います。
──堀越二郎
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──[メタバースと日本経済/030]
≪画像および関連情報≫
●ボーイングB787は「準日本製」だろう?なぜ日本は大型
旅客機が作れないのか=中国
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日本はものづくり大国ではあるが、作れないものもある。
中国メディアの網易は、2021年8月17日、「日本は民
間で大型ジェット旅客機が作れない」と指摘する記事を掲載
した。「米ボーイングの機体製造の一部を担っていて、ボー
イング機のB787などは準日本製と言っても良いほどなの
に」と不思議がっている。
日本の航空機製造はもともと技術が高く、戦時中のゼロ戦
機は世界最強と言われていたほどだ。記事は、連合国軍総司
令部(GHQ)の航空禁止令により、航空機産業が止まった
時期があるとはいえ、日本の部品製造のレベルは非常に高く
ボーイング社に部品供給するほどの実力があると指摘した。
しかしながら、「軍用機は作れても民間の大型ジェット機が
作れない」のは不思議なことだ、といぶかっている。
記事はこの理由について、3つの要因があると分析してい
る。1つは「能力不足」の問題で、日本にはこの巨大プロジ
ェクトを成功させるのに必要な、資金、人材、部品、市場な
どの総合的な条件が揃っていないとした。2つ目は総合的な
「技術不足」で、部品を作る能力はあってもコア技術がない
と指摘した。戦後7年間、航空機の開発・製造が止まってい
た間に、欧米と差が開いてしまったと分析している。3つ目
は「市場不足」だ。現在はボーイングとエアバスが市場を独
占しているので、日本がジェット機を開発しても市場が不足
しているとした。 https://bit.ly/41nbhyj
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YS11