2001年07月18日

●すべては日銀と大蔵省との暗闘にある(EJ第661号)

 大蔵省出身の日銀総裁と、日銀出身の副総裁を中心とする日銀
スタッフとの関係は、まさに現在の各省庁の大臣と事務次官を筆
頭とする事務方官僚との関係に酷似しています。そのため大蔵省
出身の日銀総裁はほとんど仕事をさせてもらえなかったといって
も過言ではないのです。
 とにかく大蔵省と日銀は、非常に長い間にわたって激しい勢力
争いを繰り広げてきたのです。その暗闘は敗戦直後からはじまっ
ています。『円の支配者』の著者、ヴェルナー氏は、現在、日本
を苦しめている10年デフレは、日銀が大蔵省を貶めるために意
図的に作り出したものであり、その陰謀は半ば成功しつつあると
いえるのです。
 国民のほとんどは、かかるデフレ不況を作り出した犯人を日銀
ではなく大蔵省であると思っており、その結果として大蔵省はそ
の名称を奪われ、解体の危機にあります。日銀は不況を利用して
大蔵省に勝利したのです。そういう意味で、現在の日本の不況は
「日銀不況」といってよいのです。エコノミストの森永卓郎氏は
このタイトルで本を書いておられます。
 さて、日銀は1998年4月から新しい日本銀行法によって念
願の独立性を手に入れ、金利政策や公開市場操作など、すべての
中央銀行の政策を、総裁と2人の副総裁、そして6人の審議委員
から構成される政策委員会で決定できるようになったのです。
 この決定にはたとえ政府といえども異議を唱えることはできず
こと金融政策については、日銀は政府よりも強い権力を手に入れ
ることができたのです。現在の速水総裁の弱々しい自信のない様
子を見ているとだまされますが、金融政策は完全に日銀の手に握
られてしまっているのです。
 今まで日銀は何をしてきたのか、そして現在日銀は何を考えて
いるのか、日銀がどう動けばデフレは解消するのかについて知る
ために、一番重要な時期、すなわち1962年〜1994年にお
ける日銀出身の日銀総裁、佐々木直、前川春雄、三重野康の3氏
について少し知っておく必要があると思います。なお、総裁など
については敬称を略させていただきます。
 佐々木直は、1962年4月から1964年12月まで副総裁
を務め、1969年12月から総裁に就任しています。佐々木に
目をつけ、後継者として選んだのは一万田尚登と戦後初の日銀総
裁である新木栄吉の2人です。
 マッカーサー司令部は、当時の日銀の幹部であった新木と一万
田を戦時経済体制の指導者として任命し、何かと援助を与えたの
です。米国の占領体制が続いている間はGHQの力は強く、日銀
総裁や蔵相などの重要ポストの人事には露骨に干渉したのです。
そのため新木栄吉は1945年8月に日銀副総裁、2ヵ月後には
総裁になります。しかし、次の年の6月に公職追放となり、19
51年まで蟄居を余儀なくされます。
 この新木に代わって日銀総裁に就任したのは一万田尚登です。
彼は優れた仕事をしてのちに「法王」と呼ばれるようになるので
すが、新木も一万田もともに生え抜きの日銀マンです。
 公職追放令が解けた新木は駐米大使に任命されます。これはき
わめて異例な人事であり、GHQの力が働いたのは明らかです。
セントラルバンカーを駐米大使にし、日銀総裁の一万田と連携を
とらせてワシントンとのコミュニケーションの円滑化を図るとい
う米国の高等戦略です。
 一方、一万田は、誰に資金を与えて誰に与えないかを決める彼
の絶対的な指令は、戦後の日本経済を容赦なく動かし、日本経済
を復活の軌道に乗せるという重要な仕事を果たしたのです。この
ように戦後経済の主導権は、大蔵省よりも日銀が握っていたこと
になります。
 しかも、1954年になると駐米大使の新木栄吉は日本に戻っ
て再び日銀総裁になり、一万田尚登はなんと蔵相に任命されるの
です。日銀の出身者が蔵相に就任したのは一万田をのぞいて他に
はいないのです。
 一万田蔵相は、このチャンスを利用して日銀法を改正し、日銀
を大蔵省から独立させようとするのですが、このクーデターは、
失敗に終ります。大蔵省はこのクーデター頓挫から反撃に転じ、
日銀は政治レベルで優位性を一時失うことになります。
 そして、逆に日銀の独走に歯止めをかけるため、大蔵省と交互
に日銀総裁を出すことを提案し日銀に承知させるのです。このあ
たりから、大蔵省と日銀の暗闘ははじまることになります。
 クーデターには失敗しましたが、大蔵省と日銀で交互に総裁を
出すというシステムによって、新木や一万田は自らの意思で後継
者を選ぶことができるようになります。そして、この二人によっ
て選ばれたのが佐々木直なのです。どうして選ばれたかというと
佐々木が新木や一万田に非常に忠実だったからです。
 一万田は、当時まだ若手の日銀マンであった佐々木直を後継者
として選んだことを日銀内に伝えたのです。これによって、佐々
木は、将来日銀総裁になるというお墨付きを得た「プリンス」と
いわれるようになります。日銀においては早くから次の「プリン
ス」が決まっているようなのです。
 新木と一万田は戦時中から佐々木直に目をつけており、戦後総
務部企画部長や人事部長の要職に置き、営業局長を長くやらせま
す。この役職は一万田流のいろいろなノウハウを知るうえで重要
なポストだったのです。
 佐々木は1969年12月から日銀総裁になるのですが、彼の
やり方は一万田流の容赦のないやり方であったそうです。規則上
は全理事が金融政策について自由に発言ができることになってい
ますが、佐々木総裁にまともに発言できる理事は一人もいなかっ
たといわれています。
 一万田は佐々木の次のプリンスも決めていて、それが前川春雄
なのです。そういうわけで佐々木総裁が自分の意思で選んだプリ
ンスが三重野康というわけです。佐々木が人事部長をしていたと
き目にとまったのが三重野康であったといわれます。
               −−[円の支配者日銀/17]

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posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(1) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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