ると、柳沢、竹中両大臣と個別に会談し、不良債権処理の加速策
について、話し合っています。柳沢、竹中両大臣の主張は完全に
食い違い、小泉首相は米国の要請をこれ以上伸ばせないと判断し
たのです。そして小泉首相は「柳沢切り」を決断します。この両
大臣の主張の違いについて、大門実紀史氏(日本共産党参議院議
員)は次のように書いています。
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柳沢大臣は「不良債権処理は着実に進んでいる。大口債権の最
終処理を1年以内に実施するよう大手行に義務づければ良いので
はないか」と、従来の主張をくり返したが、竹中は、柳沢路線を
真っ向から否定し「これまでのやり方では市場や欧米は信用しな
い。経営状態の悪い銀行には税金を投入し、場合によっては国有
化するべきだ」と米国と同じことを強硬に主張し「柳沢ではダメ
だ」と訴えた(「ウィークリイ・ポスト」10月11日)。
さらに、20日の経済財政諮問会議でも竹中が「不良銀行の国
有化」を強く主張したが、柳沢は頑としてそれを受け入れなかっ
たという(同)。なお、9月13日の「日経」経済教室で、ハバ
ードCEA委員長は「破たん寸前の金融機関を整理することこそ
選択肢とすべきである」と、銀行の救済でなく淘汰を主張してい
る。 https://bit.ly/3KC5GMm
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2002年9月30日のことです。内閣改造が行われ、柳沢伯
夫金融担当大臣は更迭され、竹中平蔵経済財政担当大臣が金融担
当大臣を兼務することになったのです。これによって、竹中大臣
は全権を掌握するに至ったのです。ハバードCEA米委員長は、
竹中大臣の金融担当大臣兼務を歓迎し、「竹中大臣こそ真の改革
者である」と持ち上げたのです。
10月30日、政府は、不良債権処理「加速」のための「金融
再生プログラム」「総合デフレ対策」を発表し、資産の査定方法
の厳格化、自己資本が不足する銀行に公的資金を注入することを
明記しています。どのように考えても、これは竹中平蔵氏が米国
側についたことによって成立しています。したがって、竹中氏は
米国側の利益を代表していると、竹中氏に対して強い批判があり
それは今でも尾を引いているといえます。
そのため、小泉首相が退陣を表明したとき、竹中氏は参院議員
でしたが、竹中氏も4年近い任期を残したまま、政界引退を表明
しています。もし、小泉首相の引退後も参院議員を続けていたら
どのようなバッシングを受けるかわからないと考えたからでしょ
うか。自らが、小泉首相あっての自分であることをよく認識して
いたからともいえます。
しかし、今にして考えてみると、どちらが正しかったのかにつ
いては、一概にはいえないのです。小泉・竹中の荒療治によって
多くの犠牲が出たものの、日本の銀行の不良債権が処理され、銀
行が健全化したことは事実だからです。しかしながら、デフレか
らは、現在になっても一向に脱却できていません。
2021年8月6日、柳沢伯夫氏は、『平成金融危機/初代金
融再生委員長の回顧』(日本経済新聞出版)の出版に当たって、
日本経済新聞記者とのインタビューで、そのときのことを次のよ
うに述べています。
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――小泉内閣で金融機関への公的資金投入に反対し当時の竹中平
蔵経済財政担当相と対立しました。
柳沢:私が資本注入を検討・容認した1998〜99年ごろとは
状況が変わった。銀行の経営責任を問わずに投入すべきではな
いと考えた。官邸主導を初めて実行した小泉純一郎元首相は竹
中氏ら民間人から意見を聞いていた。担当の私がなかなか言う
ことを聞かないと退任させた。そういうやり方をすべきではな
かった。
――官邸主導は弊害もあります。
柳沢:内閣府や内閣官房に担当を集中させ誰も責任を取らない政
治につながった。金融担当相は特命の担当相で、首相の思いつ
きで政策も変わる。 https://s.nikkei.com/3fOEUlG
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どうしてこのようなことが起きたのでしょうか。
それは「ワシントンコンセンサス」に基づいて行われていると
いえます。「ワシントンコンセンサス」とは何でしょうか。
それは、米国による冷戦終結後の世界を経済的に支配するため
の総合戦略です。
米国の首都ワシントンには、米国政府(財務省)、ウォール街
世界銀行、IMF(国際通貨基金)、IIE(国際経済研究所)
FRB(連邦準備制度理事会)などが集結しており、米国は、こ
れらの機関の共通認識のもとに、新自由主義的な政策や、対外的
な政策(国際機関を通じた支援、援助)を行っていたところから
「ワシントンコンセンサス」といわれるようになったのです。こ
のワシントンコンセンサスによるコンディンショナリーには次の
問題点があります。
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@コンディショナリティに基づいた改革を通じて対象の国の市
場を開放させることは、競争力を持つ先進国のグローバル企
業にチャンスを与えるものである。
Aコンディショナリティは、固有の歴史、文化を背景に作られ
てきたその国の社会に大変革を求めることになり、アメリカ
的な社会になることが求められる。
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こういう仕組みになっている以上、岸田内閣が「新自由主義か
ら決別する」といっても、言葉だけに終わることは目に見えてい
ます。なぜなら、新自由主義はその帰結として「格差拡大」を必
然的にもたらすことになります。
──[新しい資本主義/第013]
≪画像および関連情報≫
●「ワシントン・コンセンサス」の消滅と新しい「ワシントン
・コンセンサス」
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2021年4月11日、「ワシントン・コンセンサス」を
提唱したジョン・ウィリアムソンが83歳で亡くなった。彼
の唱えたワシントン・コンセンサスは彼の死とともに消滅し
てしまったのかもしれない。ここでは、国際通貨基金(IM
F)と世界銀行の本部が置かれたワシントンD.C.において
ワシントン・コンセンサスが果たしてきた役割を説明し、そ
れが現在、ワシントンにおいてどう変貌しているのかについ
て論じてみたい。
実は、このワシントン・コンセンサスという言葉は、19
89年以降、長く使われるなかで、さまざまの意味をもつよ
うになっていった。ウィリアムソン自身の整理によると、三
つの異なる意味をもつようになったとしている。2004年
1月13日、彼が世銀で行った「開発のための政策処方箋と
してのワシントンコンセンサス」という講義のなかで明らか
にしたものだ。
第一の意味は、ウィリアムソンが当初使ったオリジナルの
意味である。それを理解するためには、時代背景を知る必要
がある。1960年代から1970年代にかけて、好景気に
沸くラテンアメリカ諸国は、インフラ整備や工業化のために
多額の借金をしていた。1980年代初頭に金利が急上昇し
たことで、これらの借金は返済不能となり、債務不履行の危
機に陥る。米国の政治家たちは、自国の銀行の損失を心配し
て、ラテンアメリカからできるだけ多くの返済を引き出すた
めの計画を次々と打ち出す。 https://bit.ly/3tOYpmd
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柳沢伯夫元金融担当大臣