2019年06月21日

●「2019年は『逢九必乱』に該当」(EJ第5031号)

 習近平国家主席は、6月末の大阪サミットにおいて、トランプ
米大統領と首脳会談を行うことで合意しています。しかし、これ
までの交渉経緯をみる限り、合意できることはきわめて限られて
います。米国としても中国からのほぼすべての輸入品に高関税を
かける「第4弾」は、米国にとってもダメージが大きく、本心で
はやりたくないのです。
 それに、トランプ大統領は、18日に次期大統領選への出馬を
表明しており、なるべく国内にダメージを与えることはやりたく
ないし、米中交渉が決裂した場合、交渉をうまく取り運べなかっ
た大統領の責任も問われることになります。ところが、中国側か
らの首脳会談の諾否の連絡はなかなか来なかったのです。
 米中貿易交渉の難しさについて、20日付の日本経済新聞は次
のように報道しています。難問山積です。
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 米中貿易交渉の行方は世界経済の先行きも大きく左右するが、
主要論点を巡る双方の主張は隔たったままだ。特に産業補助金の
巡る溝は深い。米国が地方政府も含む全国規模での補助金全廃を
求めているのに対し、中国は「経済体制の根幹」にかかわるとし
て撤廃には慎重だ。発動済みの追加関税についても、中国は合意
時全廃するよう求め、一部を残したい米国との歩み寄りは見られ
ない。      ──2019年6月20日付、日本経済新聞
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 ところが、中国側は、G20の10日前になって、首脳会談に
応ずると返事をしてきたのです。習主席はなぜ、会談に応じたの
でしょうか。
 中国が米中首脳会談の実施に慎重だったのは、交渉が決裂した
ときに習近平国家主席が受けるダメージの大きさです。それは計
り知れないものがあります。そのため、中国側としては、何か米
中が合意できるカードを持つ必要があります。
 習主席は、トランプ大統領との電話会談のさい、貿易問題にと
どまらず、米中関係の根本的な問題で意見を交わす、拡大会合を
やりたいということで、両国は合意したといいます。そして、中
国側が切って来たのが、北朝鮮カードです。北朝鮮問題は、現在
の中国が対米交渉で主導権がとれる数少ないカードだからです。
本稿執筆時の20日、習主席は北朝鮮を訪問しています。
 中国としては、米中首脳会談にはアタマを痛めていたのです。
会談を行わなければ、「中国は逃げた」といわれるし、実施して
決裂すれば、習政権へのダメージが増幅します。しかし、このよ
うな拡大会合であれば、中国側は貿易問題で一切譲らなくても、
他の問題での合意ができれば、会談自体が決裂という結果にはな
らないわけです。
 なぜ、中国が慎重なのかというと、中国には「逢九必乱」とい
う言葉があり、末尾が「9」の年は、中国という国全体を揺るが
しかねない「必乱の年」になりかねないからです。福島香織氏の
最近著の冒頭に説明があったので、ご紹介することにします。
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     1919年 ・・・ 五四運動
     1949年 ・・・ 中国建国
     1959年 ・・・ チベット動乱ピーク
     1969年 ・・・ 珍宝島事件
     1979年 ・・・ 中越戦争
     1989年 ・・・ 天安門事件
     1999年 ・・・ 法輪功弾圧
     2009年 ・・・ ウィグル騒乱
               ──福島香織著/ワニブックス
          『習近平の敗北/紅い中国・中国の危機』
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 1919年の「五四運動」というのは、第一次世界大戦が終り
1919年のパリ講和会議で、西欧列強が山東半島の権益につい
て、日本の主張を擁護する側にまわったことに憤激し、同年5月
4日、北京大学の学生デモを皮切りに、反日運動が中国全土に拡
大したことをいいます。
 この五四運動がきっかけになって、1021年に中国共産党が
誕生することになります。そして、1949年に中華人民共和国
が建国されます。国共内戦が激化し、国民党政府は台湾に追い出
され、翌年から血みどろの反革命鎮圧、土地改革が行われ、多く
の国民党関係者や地主が殺害されたといわれます。
 1959年にはチベット動乱が起きています。中国共産党政府
によるチベット統治・支配に対し、民主改革や社会主義改造の強
要などをきっかけに1956年に動乱が起き、1959年に頂点
に達します。これがチベット動乱です。この動乱によって、ダラ
イ・ラマ14世はインドに亡命することになったのです。
 1969年に中ソ国境紛争が起きます。中国とソ連の国境にな
っているウスリー川上の珍宝島の領有をめぐって中ソ国境警備隊
同士が衝突したのです。これが珍宝島事件です。あわや中ソ全面
戦争に発展するかという危機に直面したのです。
 1979年には中越戦争が起きています。ケ小平は、文化大革
命でガタガタになった軍隊を立て直すため、米国との戦争で疲弊
しているベトナムに攻め込みます。相手がベトナムなら絶対に負
けないと考えたからです。
 ところが人民解放軍の弱いこと、60万人の1割の死傷者を出
す惨敗を喫したのです。ケ小平は、「無駄な兵士がだぶついてい
る」として、人民解放軍の100万人削減を断行します。もちろ
ん、国内的には「ベトナムに勝利」ということで、敗戦を隠して
いることは、この国ではいうまでもないことです。
 そして、1989年は天安門事件が起きています。中国人民に
よる民主化を求めるはじめての本格的デモです。そう、天安門事
件も末尾が「9」の年に起きているのです。ここまで一致すると
偶然とは思えなくなります。天安門事件以降については、来週取
り上げます。        ──[中国経済の真実/030]

≪画像および関連情報≫
 ●中国「逢八必災、逢九必乱」の法則/澁谷司氏
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   中国では、「末尾が8の年」には必ず災害が起き、「末尾
  が9の年」には必ず動乱が起きるという言い伝えがある。こ
  れが本当かどうか、順番が逆だが、まず、後者(「末尾が9
  の年」)から検証してみよう。
   1949年には、中国共産党が国民党を大陸から追い出し
  政権を樹立した。1959年にはチベットで動乱が起きた。
  そして、ダライ・ラマ14世がインドへ亡命している。19
  69年には、「中ソ国境紛争」が勃発した。1979年には
  ケ小平がカンボジアに政治介入したベトナムを“懲罰”する
  として、「中越戦争」を起こしている。
   1989年には、中国共産党は「民主化」運動を弾圧し、
  「六・四天安門事件」が起きた。その後、中国の「民主化」
  は後退している。
   1999年には、法輪功修練者が、天安門広場で静座して
  中国共産党に抗議を行った。そこで、江沢民政権は「610
  弁公室」を立ち上げ、法輪功を邪教として弾圧を開始してい
  る。2009年には、新疆・ウイグルで「7・5事件」が起
  きた。確かに、1959年以降、これらの事件は全て中国共
  産党政権を揺るがす大事件だったと言えるだろう。今年(2
  019年)は、その年に当たる。おそらく、習近平政権は、
  ピリピリしているに違いない。  https://bit.ly/2WUEiPw
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習近平国家主席の訪朝を伝える労働新聞/北朝鮮.jpg
習近平国家主席の訪朝を伝える労働新聞/北朝鮮
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | 中国経済の真実 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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