2005年06月27日

天安門事件はなぜ起こったのか(EJ1621号)

 「天安門事件」というと、日本を含む世界各国では1989年
6月4日未明に起こった惨劇――人民の軍隊が素手で抵抗する人
民に銃口を向けたあの血の粛清事件を誰でもイメージします。
 しかし、中国で「天安門事件」というと、1976年4月5日
の事件のことをいうのです。周恩来の死を悼んで天安門広場にお
いて集会が行われ、文化大革命に批判的な抗議行動を起こし、北
京当局と衝突したあの事件のことをいうのです。意識的に198
9年の天安門事件に言及するのを避けているようです。
 EJで取り上げる天安門事件は、いうまでもなく1989年の
事件のことです。現在でもこの事件については、中国、台湾、香
港ではその表現が異なるのです。
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      大 陸 ・・・・・・・ 天安門風波
      台 湾 ・・・・・ 六・四民運事件
      香 港 ・・・・・ 六・四 大惨殺
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 1989年4月15日のことです。改革派の指導者として人気
のあった胡耀邦(フー・ヤオパン)元総書記が急逝したのです。
共産党の風紀の乱れを糾弾していた会議の席上、突然心臓発作を
起こして亡くなったのです。
 胡耀邦――この人こそ「精神汚染キャンペーン」の行き過ぎを
戒め、テレサ・テンの名誉回復をした人物なのです。なぜ、「元
総書記」なのかというと、胡耀邦の改革に関しては、これに反対
する党内論争があったのです。胡耀邦はブルジョワ自由化に強い
反対の立場をとらず、学生のデモに関しても比較的寛大な態度を
とっていたのですが、これは「重大な政治原則の誤りである」と
され、テン・シャオピンをはじめとする党長老によって1987
年1月16日に総書記を降ろされたからなのです。
 1985年に時の総理大臣中曽根康弘は靖国神社に参拝してい
ますが、中国の反発を受けて次の年にこれを中止したのは、当時
総書記であった胡耀邦の政治的立場が崩れることを恐れたためと
もいわれています。しかし、1987年に胡耀邦総書記は解任さ
れてしまうのです。
 しかし、胡耀邦の後任の総書記には、やはり改革派の趙紫陽総
書記が就任し、中国は振り子を元に戻すことだけは避けたと世界
は評価していたのです。その矢先の胡耀邦の急死なのです。
 4月18日――数千人の学生が天安門広場に集まり、「胡耀邦
の再評価と名誉回復」や「精神汚染キャンペーンの除去」を求め
てデモは拡大していったのです。学生たちは「死ぬべき人が死な
ず、死ぬべきでない人が死んだ」として、やがて批判は明確にテ
ン・シャオピン(トウ小平)自身に対して向けられたのです。
 22日には天安門広場に2万人集会が行われ、24日には北京
の40の大学で6万人の学生が授業ボイコットを行うという事態
へと発展したのです。
 テン・シャオピンは4月25日に重要講和を行い、「これは単
なる学生運動ではなく動乱であり、断固として制止すべきもので
ある」と訴えているのです。しかし、新聞でこの講話の内容を知
り、「動乱」という言葉に学生たちは反発します。そして27日
には10万人を超えるデモが行われたのです。
 しかし、中国政府としてはこの時点で大きな問題を抱えていた
のです。5月15日にゴルバチョフが訪中することになっていた
からです。30年ぶりの中ソ首脳会談であり、世界中の目が北京
に集まっていたのです。その結果、天安門広場での学生運動は世
界中のメディアが報道するところになったのです。
 結局、ゴルバチョフは5月15日に北京空港に到着し、天安門
広場が学生に占拠されていて使えないので、別の場所で歓迎儀式
が行われたのです。事実上の最高権力者であるテン・シャオピン
としては、はらわたの煮えくり返る思いだったと思われます。
 16日、ゴルバチョフはテン・シャオピン、李鵬と会談したあ
と、趙紫陽総書記との会談を行ったのですが、そのときの総書記
の発言によって学生たちが反発したのです。その発言とは「自分
は総書記であるが、あくまでテン・シャオピン同士が最高指導者
である」というものです。
 趙紫陽が何を狙ってこのような発言をしたのか――その真意は
わかりませんが、「テン・シャオピンが院政をひいている」こと
は、この発言で明確に読み取れると思います。自分はもっと改革
に取り組みたいのだが、そこに大きな壁がある――このように取
れないことはないのです。
 学生たちはこの発言を受けて「老人政治は引退のとき」として
テン・シャオピンに対して引退を迫るビラが撒かれたのです。上
海でも100万人規模のデモが行われ、広州、天津、武州でも北
京に呼応してデモは拡大していったのです。
 5月17日にテン・シャオピンの自宅で政治局常務委員会が開
催されています。その席でテン・シャオピンは戒厳令の布告を主
張するのですが、趙紫陽総書記1人がこれに断固反対を唱えるの
です。しかし、テン・シャオピンは多数決で「戒厳令布告」の宣
言をごり押しします。
 1989年5月19日、戒厳令を正式に布告をするための会議
が開かれたのですが、趙紫陽総書記は病欠とされています。20
日、李鵬首相によって戒厳令実施の国務院命令が発令され、北京
郊外に20万人の軍隊が待機させられたのです。
 そのときテレサ・テンは香港にいたのです。香港では連日天安
門広場での学生たちの活動は大きく報道されていたのです。香港
だけでなく世界の華僑社会でも学生たちを支援する運動を起こそ
うとする動きがうねりのように広がっていったのです。
 香港では「全港各界連合大運動」という組織が設立され、コン
サートの開催を計画していたのです。テレサ・テンのところにも
参加の要請が届いていたのですが、テレサ・テンは参加を断って
います。しかし、それは決して本心ではなかったのです。彼女は
迷いに迷っていたのです。


≪画像および関連情報≫
 ・1989年5月19日――総書記であった趙紫陽は、民主化
  を求め天安門でハンストを続け、またはそれを支持する学生
  たちの前に現れ、ハンドマイクで涙ながらにこう語りかけた
  といわれます。
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「われわれは来るのが遅すぎた」「われわれが若かったころ
  も、デモをやり線路に寝転んだものだ」「しかし、・・多く
  の問題は解決されるだろう。諸君らにハンストの中止をお願
  心からお願いする」             ――趙紫陽
―――――――――――――――――――――――――――

1621号.jpg
posted by 平野 浩 at 09:08| Comment(1) | TrackBack(0) | テレサ・テン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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★ 朝鮮人の無様(ぶざま)な風習4つ
1.朝鮮式お辞儀= 両手をヘソの上に重ね、両肘を張り出した姿でお辞儀する。
2.朝鮮式の飲食= コップ等を握った手と反対側の手で口元を隠しながら飲む。
3.朝鮮式の洗顔= 手を動かさずに、顔を動かして洗う。更に、首までぬぐう。
4.朝鮮式の握手= 握手している手と反対側の手を握手している腕下に添える。

★ 朝鮮人が発音できない日本語の単語
朝鮮人は、「コップ」「切手」「結果」「ラッパ」といった「促音」(ツ)の単語の発音と、「ガチョウ」「大黒様」「ビール」といった「濁音」(ガ・ザ・ダ・バ行)で始まる単語の発音が不可能、あるいは、極めて困難である。


Posted by 朝鮮人の無様(ぶざま)な風習4つ at 2017年03月20日 15:32
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