てみます。
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◎1966年02月04日/全日空羽田沖事故
◎1966年11月13日/全日空松山沖事故
★1967年/第2次佐藤改造内閣で運輸大臣
★1970年/第3次佐藤内閣で防衛庁長官
◎1971年07月30日/雫石空中衝突事故
△1971年08月15日/ニクソンショック
★1982年11月/内閣総理大臣就任
◎1985年08月12日/日本航空123便墜落事故
△1985年09月22日/プラザ合意
◎航空機事故/★中曽根氏の人事/△その他
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一見すると、航空機事故と中曽根氏の人事は何の関係もないよ
うに見えます。しかし、中曽根氏は、1966年の全日空の2つ
の航空機事故が起きた後の1967年に運輸大臣に就任している
のです。当時航空機事故は運輸大臣の管轄事項です。当然のこと
ですが、大臣として事故が再発しないよう方策を実施する必要が
あります。これによって中曽根氏には、航空機事故処理の経験が
あることになります。
そして、それから3年後の1970年、中曽根氏は防衛庁長官
に就任します。運輸大臣を経験したうえでの防衛庁長官です。し
かし、長官をやったのは、1970年1月14日から1971年
7月5日までの約1年半でした。なぜなら、中曽根氏は、第3次
佐藤改造内閣で自民党総務会長に就任し、増原恵吉氏が新しい防
衛庁長官に就任したからです。
それから、約40日後に雫石空中衝突事故が起きるのです。こ
れを受けて、増原防衛庁長官は直ちに辞任します。もし、中曽根
氏が防衛庁長官を続けていたとしたら、中曽根氏自身が辞任しな
ければならないところです。そういう意味で中曽根氏は、非常に
運がいい人であるということがいえます。
増原防衛庁長官の辞任によって、西村直己氏が防衛庁長官にな
りますが、ここではっきりしていることがあります。前任の増原
恵吉氏は防衛官僚ではあるものの、着任早々であり、西村直己氏
は警察官僚であり、2人とも長官としての仕事はほとんどしてお
らず、自衛隊の指揮・命令において、力の発揮のしようがないと
いうことです。そうなると、1年半の経験を持つ中曽根氏が、雫
石事故の処理に何らかの関与をしても不思議ではないのです。
それから14年後に起きた日本航空123便墜落事故のときは
中曽根氏は首相の座にあったのです。時の防衛庁長官は、加藤紘
一氏です。1984年11月の就任ですから、就任から9ヶ月後
に事故が起きたことになります。
このとき、中曽根氏が自衛隊がらみの雫石空中衝突事故の処理
をした経験を持っていたとするならば、当然加藤防衛庁長官とは
緊密に連絡を取り、何らかの指示をしたものと考えられます。日
本はこのとき、プラザ合意を行い、円高を容認するという決断を
しており、日本経済にとって正念場を迎えていて、中曽根政権に
とってきわめて重要な局面にあったことは確かです。
これと日本航空123便の処理とはけっして無関係ではないと
思います。そのため、123便事故発生後からの中曽根首相の動
静は、遺族や関係者から見ると、その行動が「冷たい」と感ずる
ほど、極力この事件に直接かかわらないようにしているようにみ
えます。そして最近では123便墜落事故については「墓場まで
持って行く」と漏らしているといわれます。確証こそないものの
いずれにせよ、この事故の処理に中曽根首相が深く関与していた
ことは確かです。
青山透子氏は、大学の授業の一環として、この123便事故を
取り上げています。図書館で昔の新聞記事を読んで事件の概要を
知り、事件を構成している複数の項目のなかからテーマを選び、
自分自身の言葉で感想を書かせています。
そのなかから、「首相の一日」と題するテーマを選んだ群馬県
出身の学生Jの意見を要約してご紹介します。
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ここは有名な別荘地、軽井沢です。ゼミ合宿をした人も多いで
しょう。事故当日、そしてその後も私たちの町や村がもっともつ
らくて大変だった時に、本当ならば一番先に駆け付けるべき人が
ここでテニスをして、プールで泳いでいると新聞に書いてありま
した。それは、この時の総理大臣、中曽根康弘氏でした。
皆さんは注目して見なかったかもしれませんが、新開の一面の
裏に、ほらここに小さく、どの新聞にも「首相の一日」というの
があります。他の新聞では「首相の動静」「首相日々」などとい
うコーナーで、その日の前日、首相が会った人や移動などの動き
が書いてあります。うちらの地元新聞の上毛新聞では、なんせこ
の人の地元選挙区なので、親しみを込めて「中曽根さんの一日」
というコーナーです。
私は事故前後の首相の動きと、その後いつ事故現場に行ったの
か調べてみました。結局中曽根さんが来たのは、事故から3ヶ月
後の11月4日でした。遅くなつた理由は「群馬県警から警備が
大変だから後にしてくれと言われた」というものでした。そんな
理由ってありますか?茶番劇を見るようだと言って地元のみんな
は、息子の選挙が近くなったから、仕方なく来たのだろうって冷
ややかに言っていました。 ──青山透子著/河出書房新社
「日航123便墜落/疑惑のはじまり/天空の星たちへ」
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2018年8月20日から書き始めた今回のテーマは、本日で
終了します。雫石衝突事故と日本航空123便事故は、中曽根康
弘氏という人物でつながっていると私は思います。長きにわたり
ご愛読を賜りましたことを御礼申し上げます。
──[日航機123便墜落の真相/076/最終回]
≪画像および関連情報≫
●青山透子先生が学生たちに与えた課題
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航空業界事情について、航空関連の新聞の切り抜きをもと
にしたいくつもの講義の中、早速私は学生たちに新たなレポ
ート課題を出した。
@1985年の日航123便事故当時の新聞を図書館で調
べて事実関係や事故の詳細を知り、自分の言葉で要旨をまと
めること。
A多くの記事の中で一番心に残った記事を選び、それに対
する感想および自分の意見。さらにこれから航空業界で働き
たいと思っている自分が就職した場合、航空会社はどうある
べきか、どういう意識の中で働くことが重要かということを
書く。新聞記事のコピーを添付して自分の言葉で書くこと。
事故を知る身近な人たちへのインタビューが出来ればそれも
加えること。インターネット上の文章をコピーすることは絶
対不可で、自分で図書館へ通って調べること。
以上を伝えた時、どよめきが起きたことを覚えている。1
985年は学生にとって自分が生まれたばかりの頃で、遠い
昔の話である。その時起きた大事故について書かれた記事は
膨大であり、それをすべて調べるとは大変な作業だというの
が単純な理由だ。特に、まったく新聞を読まない、読む癖の
ついていない学生がこのところ増えている現実を見ると、ど
うも新聞言葉が読み難いらしく、馴染まない子が多い。日本
語の乱れというよりも、あの細かい字でびっしり書かれた文
字にアレルギー的反応が出るようである。
──青山透子著/河出書房新社の前掲書より
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中曽根康弘元首相
日航123便墜落に関しては、自衛隊・防衛庁・運輸省を統括する最高責任者として、当時の中曽根総理の責任は免れない。
しかし、彼の言動について、具体的かつ確かな証言や証拠がないままに、推測のみで議論することには賛同できません。
例えば、小田周二著「永遠に許されざる者」のP237に次のように記しています。
『最高権力者による犯罪の立証に証拠はいらない。発生事象の類推でしか特定できない』
私はこの考えに賛同できない。
類推だけでよいなら何でも言えて、無法がまかり通ります。
少なくともジャーナリストは、このような考えをすべきではありません。
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今号を最後に、私のコメントも終了します。全部で28回。
将来、日航123便に関する新たな記事を掲載される場合、メールでご一報ください。改めてコメントを差し上げます。
5年前の記事に対するコメントなど今更不要と思われるかもしれませんが、ご承知のように日航123便墜落は未解決の問題ですから、
語る価値があると思います。
私自身の解析結果の概要は、第4831号に対するコメントに続く7回ほどの一連のコメントの中で説明しました。
どこかの研究室がコンピュータを使って精細なシミュレーションを行ってくれたら、真相がより明確になります。
垂直尾翼破壊プロセスの真相については、工学的な理論は必要ですが、解析結果自体は簡潔です。図を別にして5千字あれば充分です。
事故調報告書の誤りを指摘するのに5千字ほど要するから、合わせて1万字。
池田氏や青山氏が論ずるような複雑怪奇な話ではありません。池田著と青山著は本を売るための虚構の物語です。
事故調報告書の全文を読まず、その内容を理解もせず、その中の誤り箇所を具体的に指摘もできない人が、事故調報告書を批判するなどは極めて滑稽な話です。
事故調報告書を理解せずに上辺だけで異論を展開するのは、本を売るための虚構を描くためです。
2023,10,21―2
鷹富士成夢
「御巣鷹山の悲劇」と題する掲示板があり、この中の投稿番号、NO.2607 〜 No.2614 に真相を示す記事が投稿されています。
下記に、アドレス。
https://osutakayama-no-higeki.com/
2023,10,25