2018年12月06日

●「雫石衝突事故の政治的背景を探る」(EJ第4905号)

 雫石空中墜落事故の政治的背景について考えてみます。事故発
生当時の内閣は佐藤内閣です。佐藤内閣は1964年以来の長期
政権であり、沖縄返還協定調印後に、佐藤首相が引退するのでは
ないかという観測が政界に高まっていて、その後継者争いが激し
くなっていたのです。いわゆる「角福戦争」です。
 1972年7月5日の自民党総裁選挙では、次の2人が次期総
理総裁を目指して出馬し、激突したのです。この前年7月の第3
次佐藤改造内閣発足からの1年間の政権争奪紛争のことを「角福
戦争」と呼んでいます。雫石衝突事故は、まさにその第3次佐藤
改造内閣発足直後の7月30日に起きているのです。
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           田中角栄通産大臣
           福田赳夫外務大臣
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 この自民党総裁選挙では、田中角栄氏が勝利し、第64代内閣
総理大臣に任命されています。この角福戦争の背景について、古
川隆久氏は次のように書いています。
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 佐藤政権で幹事長などをつとめた田中は、高等小学校卒と学歴
こそないが、土建業や土地転売など、違法すれすれの方法まで使
って築いた財力で政界に進出し、議員立法などの手法で精力的に
国土開発政策を推進して実績を積んだ。田中はたたき上げの党人
派だった。又、金力と絶妙の人心掌握で、自民党の政治家はもと
より、エリート官僚たちをも次第に手なずけて政策立案の相談相
手とした。「コンピューター付きブルドーザー」とも呼ばれたゆ
えんである。ただし、資金調達方法では早くから数々の疑惑が取
りざたされていた。
 田中は佐藤派に属していたが、佐藤が、田中を後継者と認めな
かったので、昭和47年5月に佐藤派を分裂させて田中派を結成
し、総裁選に出馬した。手堅い性格の佐藤には、猪突猛進型で金
に関する疑惑のうわさが絶えない田中が危なっかしく見えたよう
だ。佐藤は後継に大蔵官僚出身の福田剋夫を推した。しかし、佐
藤の党内への影響力は前年から既に失われており、田中は豊富な
資金力に物をいわせて、7月5日の自民党総裁選で福田を破って
当選、6日に総理に就任した。   ──古川隆久著/講談社刊
          『昭和戦後史(下)/崩壊する経済大国』
                  ──佐藤守著/青林堂刊
          『自衛隊の「犯罪」/雫石事件の真相!』
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 この角福戦争に深く絡んでいるのが「ロッキード事件」です。
 雫石事故が発生し、その直後から自衛隊犯人説が浮上し、まる
でそれにタイミングを合わせるように、事件直後の2日後の8月
2日、増原防衛庁長官が辞任しています。後任には、西村直己氏
が起用されましたが、それにしても何と早い辞任でしょうか。
 1971年8月4日の衆議院運輸・交通安全対策委員会におい
て佐藤首相は、和田耕作民社党議員の「警察庁の調べによると、
自衛隊機の無謀な訓練が原因といわれている」との質問に次のよ
うに答弁しています。
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 政府の責任においてお詫びする。議論するつもりはない。訓練
計画そのものは度外れたものではない。民間機も所定の時間通り
に飛んだのなら、事故に遭わなかった。計器飛行でも前方を注視
しなければならん。            ──佐藤栄作首相
            ──佐藤守著/青林堂刊の前掲書より
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 重要なのは、佐藤首相が「民間機にも問題がある」と言及して
いることです。これによって、事故直後には自衛隊犯人説が強く
前面に出たものの、自衛隊側の反論もあり、全日空機の落ち度を
指摘する声も、強くなっていたのです。
 この事態を重く見たのは田中角栄氏(当時:通産大臣)である
と佐藤守氏はいうのです。あくまで仮定の話として、次のように
述べています。
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 ここで民航機側の失態が判明し、運輸大臣も「辞職」する事態
になっていたら、佐藤内閣は、防衛、運輸の2大臣を失い総辞職
です。そうなれば、後継総理は自動的≠ノ福田氏になる。準備
不足の田中氏は焦ったに違いありません。なんとしてでも運輸大
臣の「辞職」だけは防ぎ、佐藤内閣総辞職の事態を防ぐためにこ
の事件は「自衛隊側の一方的なミス」にして、何とかこの窮地を
切り抜けねばならぬと考えたとしてもおかしくはないでしょう。
 そこで、当時通産大臣だった田中氏が、丹羽運輸大臣を呼び、
「犯人は自衛隊」として処理するように指示したとは考えられな
いでしょうか?     ──佐藤守著/青林堂刊の前掲書より
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 事実を調べて行くと全日空機の過失は明らかです。しかし、そ
れを真逆の自衛隊機の過失であることにして、裁判を含め、その
考えを押し通すには、相当の強い権力を持つ人物の力が必要にな
ります。その人物を佐藤守氏は、当時の田中角栄通産大臣てはな
いかといっているのです。
 さらにこの考え方を押し通すには、防衛庁に対して強い発言力
を持つ人物も必要になります。既に事件直後に増原防衛庁長官は
辞任しています。就任したばかりの西村防衛庁長官にそんなこと
はできないでしょう。そうすると、増原長官の前の防衛庁長官で
はないかということになります。
 その防衛庁長官が中曽根康弘氏なのです。中曽根氏はただの防
衛庁長官ではないのです。それまで1959年には科学技術庁長
官を務め、1967年には運輸大臣を経験している実力派の防衛
庁長官です。日本の防衛装備計画について、一家言を持つ人物で
す。当時次の時代の総理大臣候補として、注目を集めていた人物
なのです。    ──[日航機123便墜落の真相/075]

≪画像および関連情報≫
 ●中曽根康弘氏はどのような大臣だったか
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   運輸大臣時代は成田空港問題にかかわり、1968年4月
  6日に友納武人千葉県知事とともに新東京国際空港公団と条
  件賛成派の「用地売り渡しに関する覚書」取り交わしに立ち
  会っている。「札束を積めば農家なんてすぐ土地を売る」と
  反対派の訴えに耳を貸さない政治家が多い中、同年8月9日
  には、自宅にアポなしで訪れた戸村一作ら反対同盟と面会し
  ている。
   防衛庁長官時代には、1970年に防衛庁の事務方で権勢
  を振るっていた海原治が国防会議事務局長として新聞記者と
  の懇談会で防衛計画について批判したことが、3月7日の衆
  議院予算委員会で取り上げられた際に、中曽根は防衛庁長官
  として「事務屋なので政策論を述べる地位ではない。事務局
  長というのは庶務課長、極端にいえば文書を集め、文書を発
  送するお茶汲みに過ぎない」と発言し、海原も出席していた
  議場を騒然とさせた。三島事件を批判する声明を防衛庁長官
  として出したが、三島に近い一部保守系団体や民族派勢力、
  右翼団体などから強く批判された(中曽根は自著の中で「三
  島と親しいように思われていたが深い付き合いがあったわけ
  ではない」と釈明している)。1972年の殖産住宅事件で
  は、株取得で証人喚問される。翌年に脱税容疑で逮捕された
  殖産住宅相互の東郷民安社長は旧制静岡高校時代からの友人
  であったため、親友も見殺しにすると囁かれた。こうして要
  職を経験する中で、いわゆる「三角大福中」の一角として、
  ポスト佐藤の一人とみなされるようになっていった。
          ウィキペディア https://bit.ly/2hxQd6W
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防衛庁長官当時の中曽根康弘氏.png
防衛庁長官当時の中曽根康弘氏
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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