「5000号」に到達します。1998年10月15日を第1号
としてスタートし、2018年10月15日で満20年を超えて
21年目に入っています。ここまで、続けられたのは、熱心に読
んでいただいている読者のおかげであり、厚く御礼申し上げる次
第です。今後ともよろしくお願い申し上げます。
昭和47年(1972年)7月28日付、読売新聞に次のタイ
トルの記事が出ています。(添付ファイル参照)
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“ナゾの7秒”を再現
窓に広がる訓練機/あぶない!衝突「空中衝突最終報告」
──1972年7月28日付、読売新聞
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空中衝突から約1年後のことです。この時点で、全日空と防衛
庁の見解は対立しています。かなり長い記事ですが、事故調の主
張の全貌がわかるので、記事を3つに分けて、佐藤守氏のコメン
トを参照にして論評を加えることにします。まず、記事のリード
文の部分です。
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左上方から刻々機影を大きくしてすり寄ってくる自衛隊機。少
なくとも接触7秒前に、この機影を認めた全日空機、川西三郎機
長は、何を考え、どういう行動を取ったのか。昨年7月30日の
全日空機・自衛隊機空中衝突事故の最終報告書が27日、田中首
相に提出されたが、やはり、死者の心理〃を正確にうかがい知
ることはできなかった。この七秒間のナゾ″をめぐって全日空
と防衛庁の見解は、真っ向から対立している。避けられたのか、
避け得なかったのか。真実はひとつしかない。最終報告書に盛り
込まれた全日空機フライト・レコーダー、傍受した管制交信テー
プの分析をもとに、恐怖の一瞬を再現する。
──1972年7月28日付/読売新聞/リード文
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リード文の記事では、「自衛隊機は刻々機影を大きくして迫っ
てくる」と表現し、少なくとも「接触7秒前に」全日空機は、こ
の機影を認めていると書いています。つまり、全日空機が自衛隊
機の機影を視認していたことを示しています。これは事故調査報
告書にある表現です。続いて本文です。
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晴天、視程10キロ以上。
午後1時33分、千歳空港を飛び立った東京行き全日空58便
はジェット・ルート「J11L」に乗り、順調な飛行を続けてい
た。雲ひとつ無い晴天、視程は10キロ以上。飛びなれたコース
に何の不安も無い。が、悪夢のような一瞬は刻々と迫っていた。
接触20秒前、いったんジェット・ルートを横断した自衛隊機は
左旋回を開始していた。その時、教官機の位置は、全日空機の左
29度前方2・5キロ、訓練機は左65度前方1・4キロにあっ
た。「全日空機操縦者にとっては、訓練機は終始、注視野(固視
点を中心とする44度から50度の範囲を言う)の外にあった=
報告書から」 ──1972年7月28日付/読売新聞/本文@
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この記事によると、全日空機は飛行報告書の通り、ジェットル
ートの「J11L」を飛行していて、そのジェットルートを自衛
隊機(訓練機)がいったん横断し、左旋回して迫ってくるように
描いています。
このさい、教官機は左29度前方2・5キロに見えていたもの
の、訓練機は終始、「注視野」の外にあったと書いています。こ
こで、注視野というのは、医学用語で、顔を動かさず、眼球のみ
を動かして見える範囲のことです。「訓練機は注視野の外」と表
現しているので、見えていないということです。訓練機は左旋回
して全日空機の後方に回り、衝突したといいたいのでしょうか。
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「両機グングン接近」
全日空機の時速は約902キロ、訓練機は同802キロ。ほぼ
同一方向に飛ぶ両機の間隔はグングン縮まる。接触7秒前。訓練
機の位置は、全日空機から見て左60度前方、その間隔は僅か、
300メートルにせまった。少なくとも、この時、川西機長は左
にやや翼を傾け左旋回姿勢の訓練機を見つけた。「危ない」−−
とっさに操縦カンを握り締めた。こぶしに汗がにじむ。無意識の
うちに左人さし指で交信ボタンを押した。同時に、オート・パイ
ロットのスイッチを切ったに違いない。左第2ウインドーに映る
訓練機の機影はみるみる大きくなる。「接触数秒前までは(略)
訓練機が非定常運動をしているため、全日空機操縦者にとって、
この時点で訓練機の飛行経路を的確に予測することは、困難であ
ったと考えられる=同」
──1972年7月28日付/読売新聞/本文A
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ここで記事は重要なことを述べています。それは、全日空機の
方が、自衛隊機(戦闘機)よりも速いという事実です。そうであ
るとすると、訓練機が左旋回して全日空機の後方に回り、そのう
えで全日空機に衝突することはあり得ないことになります。追い
つかないからです。
つまり、記事では、全日空機クルーが、訓練機を衝突7秒前か
ら視認していたということをどうしても強調したかったというこ
とになります。まさかクルー3人が食事をしていて、コックピッ
トには誰もいなかったという事実を全日空は隠したかったのでは
ないかとと思われます。もし、本当に自衛隊機を視認していたと
すれば、なぜ回避措置をとらなかったのかということが問題にな
ります。1989年の民事訴訟での控訴審判決では「視認してい
ながら回避措置をとらなかったことの理由の合理性は乏しい」と
断じています。つまり、やはり視認していなかったことが正しい
のです。 ──[日航機123便墜落の真相/070]
≪画像および関連情報≫
●空中衝突の別の表現/雫石空中衝突事故
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岩手県岩手郡雫石町付近上空で、午後2時2分頃、東京方
向へ190度の磁針度を取って飛行していた全日空58便機
に、岩手山付近を旋回飛行していた2機の自衛隊機がニアミ
スした。当時は雲一つない快晴であった。雫石上空で訓練空
域を太平洋側に変更するために教官機が左に旋回したが、教
官機よりも16000フィート下を飛行していた訓練生は、
教官の操縦する機体の追尾に集中していたため、操縦してい
た自衛隊機(シリアルナンバー92−7932)が接近し、
衝突の直前に互いに視認した。
教官は訓練生に対して衝突回避行動を取るように命令、わ
ずか2秒前(距離500メートル)から実行したが回避する
には既に手遅れであった。そのうえ旅客機の進行方向に訓練
生が回避しようとしていたため、自衛隊機に全日空機が、下
側から追いつく形で28000フィート(約8500メート
ル)で衝突し、自衛隊訓練生機の右主翼付け根付近に全日空
機が水平尾翼安定板左先端付近前縁(T字尾翼のため機体の
最も上の部分であった)を引っかけるような形で接触した。
そのときの速度は旅客機が900キロメートル/h、自衛隊
機が840キロメートル/hであった。
https://bit.ly/2Qq4cvk
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読売新聞/昭和47年7月28日付早版