2018年11月21日

●「58便コックピットの中での対話」(EJ第4895号)

 佐藤守氏の本にコックピットでの次の会話が出ています。これ
は元海軍パイロットの須藤朔氏と阪本太朗氏の著作に出ていたも
のです。58便が千歳を離陸してから上昇し、28000フィー
トで水平飛行に移るまでの間のコックピットの状況を推定して、
それを「再現」しています。そのときの全日空機のコックピット
内の雰囲気がわかるので、少し長いが引用します。
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 操縦席の辻副操縦士が、隣の席(左席)の機長に声を掛ける。
「キャプテン、機首方位が安定しませんね。風向の違い(高度に
よって)が大きいようです」
 川西機長がうなずく。
「うん、速度も落ち着かないね。だが、この程度では酔っ払うお
客さんはいないだろうよ。まあ、シートベルトを、もうしばらく
着けていてもらうことにしようか」
 機は函館まで、後約30マイルの地点に来ていた。
「千歳レーダー、こちら全日空58便。高度1万5000フィー
トを越えた」
 管制通信は副操縦士の仕事である。すぐに管制塔のレーダー担
当から応答がある。
「全日空58便、諒解。2万8000フィートまで上昇、その高
度を維持せよ。現在位置は函館ラジオ・ビーコンの北東30哩。
レーダー応答機の識別符号は分類2300を使え。レーダー管制
空域は終わった。管制通信電波周波数を135・9メガヘルツに
切り替えて札幌管制部と連絡を取れ」
「58便、諒解、札幌管制部と連絡する」
 ここで全日空58便は、千歳空港管制塔の管制下をはなれた。
管制交信記録によると、全日空58便は、13時46分に高度2
万2000フィートで函館上空を通過したこと、ついで約4分後
の13時50分11秒には高度2万8000フィートに達したこ
とを札幌管制部に報告している。
 58便が巡航速度に達して水平飛行に入ったのは、青森県下北
半島の西岸上空で、陸奥湾へ後12、3キロの地点だった。
 機長が副操に声をかける。
「今日は往復とも天気には恵まれたね。もう80哩(約150キ
ロ)先の岩手山が見えているよ」
 このときの機首方位は185度(真南より5度西寄り)真対気
速度は400ノットから刻々上昇しつつあった。
「これほどの視界はめったにありませんな。風は右正横からで約
40ノット(秒速約21メートル)、偏流(風下側に流される角
度)は現在約6度です」
「巡航速度になれば(偏流は)4度半から5度というところだろ
うな」と機長。
「十和田湖と岩手山の位置から見ると4、5キロ。ルートから右
にはずれているようですが・・・」
「こんなに良く見える日は、航法に気を使うことはないよ。今日
は大分おくれたから、仙台のVORで、気楽に近道と行こうじゃ
ないか」
「そうします。ところでキャプテン、おなかの方は?」
「ペコペコだよ。千歳じゃ食べている暇はないからな。“ジョー
ジ”(自動操縦装置)におまかせして昼食にしよう」
              ──須藤朔/阪本太朗著/圭文社
        『恐怖の空中接触事故=空の旅は安全か!?』
                  ──佐藤守著/青林堂刊
          『自衛隊の「犯罪」/雫石事件の真相!』
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 なぜ、このような仮想対話になってしまうのかというと、衝突
した全日空機、B727─200型機(JA8329)には、ボ
イスレコーダー装備されていなかったのです。
 「そんな馬鹿な!」と誰しも思うはずです。確かに、これはお
かしいです。この事故機であるB727─200型機(JA83
29)は、製造10日後の昭和46年3月12日に、全日空社に
納入されたばかりで、ボイスレコーダーが付いていないはずがな
いからです。
 確かに1960年代後半の航空機には、必ずボイスレコーダー
が付いているという状況ではなかったのですが、昭和41年に起
きた全日空の次の2つの飛行機事故を契機として、ボイスレコー
ダーの設置が義務付けられるようになっていたからです。
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   ◎全日空羽田沖事故/B727─100型
    1966年 2月 4日/133人全員死亡
   ◎全日空松山沖事故/YS─11機
    1966年11月13日/50人全員死亡
─────────────────────────────
 これら2つの事故の原因は不明です。ボイスレコーダー(CV
R)が装備されていなかったからです。元航空庁長官で、日本航
空に天下りしていた大庭哲夫氏は、1966年の全日空の2つの
事故があった直後からボイスレコーダーの装備の必要性を説いて
いたのです。その大庭氏は1967年に事故続きの全日空の立て
直しのために全日空の副社長に就任しています。その4年後に雫
石事故が起きているのですが、その全日空機にボイスレコーダー
が装備されていないはずがないからです。
 全日空は1966年に2回墜落事故を起こした後、1971年
7月に雫石事故を起こしたことになります。いずれも乗客乗員全
員が死亡しています。そういう意味でも雫石事故だけは、国とし
て全日空犯人説はとれなかったのでしょう。
 事故機にはボイスレコーダーは装備されていたはずですが、そ
れを公開すると、自衛隊犯人説が崩れてしまうので、装備されて
いなかったということにしたのではないかと思われます。どうし
て、こうも自衛隊犯人説にこだわるのでしょうか。
         ──[日航機123便墜落の真相/065]

≪画像および関連情報≫
 ●昼間の大空で空中衝突が起こった日/雫石空中衝突事故
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   岩手県は雫石町の上空で自衛隊機と全日空機が空中衝突し
  た「全日空機雫石衝突事故」は、1971年(46年)のこ
  の日に発生しました。旅客機と航空自衛隊の戦闘機が飛行中
  に接触し、共に墜落。機体を損傷した旅客機は空中分解し、
  乗客155名と乗員7名の計162名の全員が亡くなるとい
  う日本の航空史上に残る大事故でした。
   その日、北海道の千歳空港発の羽田行の全日空58便(ボ
  ―イング727)は、機材の遅れにより、午後1時33分に
  離陸します。その乗客の多くは団体旅行客の静岡県富士市か
  らの一行でした。58便は函館を過ぎたあたりから、高度を
  28000フィートに上昇し、宮城県の松島上空を目指して
  自動操縦で飛行していました。航空自衛隊のF86F戦闘機
  の2機は、編隊飛行訓練のため「有視界飛行方式」による飛
  行計画で、基地を午後1時28分頃に離陸しました。離陸前
  に教官は訓練生に対して訓練空域は盛岡であることを示し、
  訓練後は松島飛行場へ向かって自動方向探知機よる着陸訓練
  を行う予定であることを伝えていました。そして、午後2時
  過ぎ、事故が発生します。当時「雫石町上空は視界は良好」
  という環境下で、下層に雲が少しある程度だったそうです。
                  https://bit.ly/2DxTH22
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大庭哲夫元航空庁長官.jpg
大庭哲夫元航空庁長官
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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