2018年11月20日

●「全日空58便の30日の乗務状況」(EJ第4894号)

 繰り返しますが、雫石空中衝突事故は、自衛隊機の“暴走”と
いうことで、裁判では決着がついていますが、事実はまったく逆
です。全日空機が自衛隊の訓練空域に入り込み、自衛隊の市川機
に追突して起きたのです。これは、詳しく事実をフォローしてみ
ると、正しいことがわかります。
 もし、これが本当であるとすると、自衛隊はなぜ黙っているの
でしょうか。なぜ、抵抗しないのでしょうか。もちろん自衛隊は
反論していますが、それは弱々しいものです。そこに国の判断が
入っているからです。
 なぜ、国は全日空に配慮したのでしょうか。
 ここがポイントです。当時は、第3次佐藤改造内閣でしたが、
その翌年に田中角栄内閣が誕生し、政界を巻き込むあのロッキー
ド事件が起きています。そのとき、全日空は疑惑の中心にいたの
です。国の決定はこういう時代背景と無関係ではないのです。
 この雫石空中衝突事故の起きた日、全日空機に何があったのか
について調べてみることにします。
 昭和46年(1971年)7月30日の朝、川西機長、辻副操
縦士、カーペンター航空機関士のクルーと4人のスチュワーデス
は千歳空港にいたのです。この朝一番の便である千歳発午前8時
40分、羽田着午前10時の50便の乗務をするためです。
 この羽田行きの50便で、クルーは午前9時過ぎに、盛岡付近
上空で、自衛隊の二機編隊を目撃しています。
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 当時の乗客の話によると、辻副操縦士が飛行機の速度、高度な
どを客室にアナウンスしていた時である、突然声が途切れた。5
秒ほどしてから「左手に自衛隊機の編隊飛行が見えます」といっ
て終わった。後でスチュワーデスがこの時の模様を尋ねたところ
辻副操縦士は「自衛隊機にヒヤッとしたんだ」と答えている。
   ──足立東著『追突/雫石航空事故の真実』日本評論社
                  ──佐藤守著/青林堂刊
          『自衛隊の「犯罪」/雫石事件の真相!』
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 佐藤守氏が調べたところによると、このとき2機編隊飛行をし
ていたのは、浜松から松島派遣隊に異動してきた小野寺康充教官
と訓練生機だったのです。その小野寺教官は、訓練生機の下を通
る全日空機をみて、訓練生に注意しています。
 さて、全日空50便として羽田に到着すると、同じクルーで、
今度は羽田発57便として、午前10時50分に羽田を離陸し、
千歳に引き返すことになっています。しかし、50便の羽田到着
は午前10時であったので、時間は50分しか余裕がないことに
なります。乗客の降り乗り、機内の掃除、荷物の搬出と搬入、機
体の点検整備を50分でやることは神業です。すべてのことをき
ちんとやることが困難な時間といえます。
 操縦クルーは、その短い時間で、デイ・ブリーフィング(飛行
後の打ち合わせ)、千歳行きのための気象ブリーフィング、ディ
スパッチャー(運行担当者)との打ち合わせ、クルーの確認、機
長ブリーフィングと、トイレに行く時間もない忙しさです。
 しかし、そのときは、コックピットの防氷装置の不具合が発見
されたので、出発は39分遅れ、午前11時29分発になってし
まったのです。
 この全日空57便がいつ千歳に着いたのかについては不明なの
で推察するしかないですが、飛行計画から1時間20分の飛行時
間がかかるとして、午後12時50分になるはずです。機長の飛
行計画によると、この機は全日空58便として再び羽田に向うの
です。出発予定時刻は午後1時15分になっています。
 上記の足立東著『追突/雫石航空事故の真実』によると、午後
1時25分に駐機場から地上滑走を開始し、午後1時33分頃離
陸したことになっています。もし、千歳着が12時50分とする
と、準備には30分しか時間がなかったことになります。この時
間で必要なことをすべてやるのは不可能であり、操縦クルーやス
チュワーデスは、食事をするヒマなどなかったと思われます。
 この全日空58便が、実際にどのように羽田に向い、雫石町上
空で、自衛隊機と衝突したか、衝突までの状況を佐藤守氏の本か
ら引用します。
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 7月30日午後1時33分に、川西機長が提出した飛行計画よ
り18分、出発予定時刻の午後零時40分より53分も遅れて、
千歳空港を離陸した58便は、千歳のレーダー管制を受けつつ上
昇し、札幌管制所の管制下に移行、午後1時46分に函館NDB
を高度22000フィートで通過、そこで次の松島NDB通過予
定時刻は、午後2時11分であると通報しました。
 そして函館NDB通過後の1時50分に、高度28000フィ
ート(約8500メートル)に到達したことを札幌管制所に通報
し、この時点で機長は自動操縦に切り替え、以後計画書どおりに
「松島NDB」に向けて、高度28000フィートで南下したこ
とになっています。
 事故後に公表されたフライト・データ・レコーダー(FDR)
の記録によれば、以後、計器速度310〜318ノット(マッハ
0・79)、機首磁方位は189〜190度、垂直加速度がほぼ
1Gという水平定常飛行が、衝突時まで続き、好天に恵まれた穏
やかなフライトだったことを窺わせますが、進路維持には疑問を
抱かざるを得ません。       ──佐藤守著の前掲書より
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 これを見ると、操縦クルーは少なくとも午後1時50分までは
食事がとれなかったと思われます。このクルーの30日のフライ
トは58便で3回目であり、スチュワーデスの4人を含めて心身
ともに疲れ切っていたものと思われます。そこで高度28000
フィートに達したところで、自動操縦に切り換え、食事をとった
のではないかと推察されるのです。
         ──[日航機123便墜落の真相/064]

≪画像および関連情報≫
 ●予定便変更で生死を分けた42人と25人/朝日新聞
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   飛行機の遅れがひどいため、たまりかねて一便予定を早め
  て命拾いした42人と「みんな一緒の飛行機で帰ろう」と一
  便遅らせて遭難した25人と──空中衝突した全日空58便
  の53分の遅れの離陸が団体客の「生」と「死」を分けた。
  日本旅行高知営業所などが募集した北海道観光旅行団に参加
  した高知県土佐市の高岡農協の42人は、運命≠フ全日空
  58便(千歳発予定午後12時40分)で東京へ向かう予定
  だった。
   ところが、この日は羽田空港上空の慢性ラッシュ″や、
  飛行機の整備などのため、千歳発の便が軒並み20分から1
  時間あまりも遅れており、58便も相当遅れる見込みになっ
  たため乗り継ぐ予定の大阪行き29便に間に合わなくなる、
  と、急ぎ一便前の82便に乗り換え、危機一髪で難をまぬか
  れた。一方、遭難した静岡県の吉原遺族会の一行125人の
  うち、100人はもともと58便に乗ることになっていたが
  25人は58便の席が取れなかったため、82便で一足先に
  東京へ向かうことにしていた。ところが、飛行機の遅れで、
  高知の団体のほか、一般客の中にも予定を変更して早い便に
  乗る人が続出して粥便の席が空いたため、「楽しい旅だから
  みんないっしょに帰ろう」と、25人はわざわざ一便遅らせ
  て、53分後に出発した58便に乗ったという。
           ──1971年7月31日付、朝日新聞
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全日空/B727.jpg
全日空/B727
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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