めてみることにします。
─────────────────────────────
◎1988年12月01日
・群馬県警が、日本航空12名、運輸省4名、ボーイング社4
名の合計20名を書類送検。
◎1989年01月23日
・前橋地検と東京地検が合同捜査開始。東京地検が米司法省を
通じ、ボーイング社への事情聴取を求めたが、拒否される。
◎1989年09月15日
・前橋地検、20名全員を不起訴にする方針を固める。
◎1989年11月22日
・不起訴処分決定。
◎1990年04月25日
・遺族は、前橋地検の不起訴を不服として、前橋検察審査会に
審査を申し出たが、前橋検察審査会が「不起訴相当」を決定。
◎1990年07月17日
・この事件担当の前橋地検検事正・山口悠介氏が異例の説明会
を実施。
◎1990年08月12日
・公訴時効成立。
─────────────────────────────
ここで強調しておきたいことは、JAL123便墜落事件の関
係者は、誰ひとり罪に問われることなく、公訴時効を迎えている
ことです。520名がそれによって亡くなっているにもかかわら
ず、誰も罪に問われていないのです。
そもそも、この「検察不起訴決定」→「不服として検察審査会
での審査申し立て」→「不起訴相当決定」──これはいつもお定
まりのコースのようになっています。とくに安倍政権になってか
らは、政治家や官僚のどんな不祥事でも、この定例コースに乗っ
て不起訴になっています。検察に大きな問題があるからです。
しかし、JAL123便墜落事件の場合は、遺族側からの強い
要望により、1990年07月17日に担当検事である前橋地検
検事正・山口悠介氏が説明会を開いています。このような説明会
を開くこと自体が異例であるうえに、その説明内容もかなり大胆
なものだったのです。
─────────────────────────────
私が検事正になったとたん、すでにマスコミが「検察、不起訴
か」などと報道し始めた。いったい、どうなっているのかと驚い
た。さらに捜査会議を開いたら、部下の検事はだれもこの事件は
起訴出来ないと言った。それでも私は様々な角度から捜査した。
捜査の結果、わかったことは修理ミスかどうか相当疑わしいと
いうことだ。事故原因には色々な説がある。タイ航空機の時には
乗客の耳がキーンとしたという声があったが、今回はない。圧力
隔壁破壊がいっぺんに起きたかどうかも疑わしい。
まず、ボーイング社が修理ミスを認めたが、この方が簡単だか
らだ。落ちた飛行機だけの原因ならいいが、全世界に飛ぶ飛行機
の欠陥となると売れ行きも悪くなり、打撃も大きくなる。そこで
いち早く修理ミスとした。事故調査委員会の報告もあいまいだ。
(膨大な書類を指して)これを見ても真の原因はわからない。事
故後の機体や遺体の写真、ボーイング社、日航、運輸省関連調書
何をみても事故の報告書でしかなく、それからは本当の原因など
は何もわからない。皆さんはわれわれが何か特別に大切なものを
持っているように思っているかもしれないが、本当に原因は不明
なのです。 ──前橋地検検事正・山口悠介氏
──青山透子著/河出書房新社
「日航123便墜落/疑惑のはじまり/天空の星たちへ」
─────────────────────────────
この山口悠介検事正は大変立派な方であると思います。事故調
の最終報告に対して疑問を呈しているからです。こういう正義感
を持っている検事は今どき珍しい。事故調のメンバーは政府が決
めており、そのメンバーの出した結論に疑問を呈することはなか
なかできないことです。
しかし、この山口検事正の勇気ある発言を遺族は悪くとったよ
うです。遺族から見ると、政府(事故調)も日航も検察もすべて
一体と考えているからです。したがって、次のようなことをいう
遺族もあったようです。
─────────────────────────────
何をいまさら!言い逃れか!それは、あなたたち検察が十分調
査しなかった、自分の仕事をしなかったからなのではないか。
──青山透子著の前掲書より
─────────────────────────────
また、山口検事正は日本航空の対応についても「整備陣もやる
べきことをやっていなかった事実もある」という鋭い批判をして
います。それに加えて、日航関係者が一貫して取り調べに関して
非協力的であったことをその会見で明かしています。
山口検事正によると、日航関係者を任意で呼んで調べると、質
問されたことを逐一メモにとり、それ以後呼ぶ人は、まるで判を
押したように同じ答えをするというのです。例えば、検事が答え
方に苛立って机をたたくと、「×時○分、△△氏机をたたく」と
いうようにメモに書くというのです。これについて、青山透子氏
は、次のように日航を批判しています。
─────────────────────────────
同じ会社の社員だった者として、これは許せない態度である。
彼らは整備士という仕事に人生を懸けたプロの集団だったのでは
ないか。自ら責務をもって仕事をしていたのではないか。これが
ナショナルフラッグキャリアの看板を背負って昼夜問わず働いた
仲間のすることだろうか。 ──青山透子著の前掲書より
─────────────────────────────
──[日航機123便墜落の真相/054]
≪画像および関連情報≫
●坂本九さんの死は飛行機による事故死!
───────────────────────────
2015年8月15日に日本航空123便墜落事故で、坂
本九さんの没後30周年の追悼番組がBSにて放送されまし
た。また坂本九の奥さんが、徹子の部屋に出演したとして、
ニュースになりました。坂本九は飛行機事故で遺体も大変な
状況になったということです。
坂本九さんが亡くなられたのは、日本航空123便墜落事
故の時。事故が発生した日は夏休みの時期であり、「お盆の
入り(1985年8月12日)」の前日であったため、当日
の日本航空や全日本空輸、東亜国内航空の各便には出張帰り
のビジネスマンのほか、帰省客や観光客が多く搭乗していた
そうです。最終便が満席で乗れない客が発生することを防ぐ
理由もあり、最終便1本前である当便はほぼ満席の状態だ。
このため、仕事を終えて帰宅しようとした全日空の社員も自
社便が利用できず、数名が当便に搭乗していたと記録されて
います。この飛行機事故では4名の生存者があったことで有
名です。
日本航空123便墜落事故は、1985年8月12日、東京
(羽田)発大阪(伊丹)行同社定期123便ボーイング74
7SR−46が、ボーイング社の不適切な修理が原因とされ
る後部圧力隔壁の破損によって、垂直尾翼と補助動力装置が
破損し油圧操縦システムも全喪失しました。
https://bit.ly/2AJU0F6
───────────────────────────
故坂本九氏