2018年11月05日

●「機長の制服はなぜなくなったのか」(EJ第4883号)

 青山透子氏の本では、JAL123便墜落事件についての知ら
れざる事実が明らかにされてきています。それらを一つずつご紹
介していくことにします。
 JAL123便墜落事件に対して、最高の責任者であるばずの
当時の中曽根首相と加藤紘一防衛庁長官が、いかに緊張感のない
対応をしていたかを示す出来事があります。
 1985年8月13日のことです。123便事故の翌日です。
何しろ墜落現場が特定されたのが13日の朝のことですから、日
本中が騒然となっていたときです。520人の死者が確定してい
るのです。その時点では、中曽根首相も加藤防衛庁長官も地上か
らはもちろん、ヘリコプターでの墜落現場の空中視察すらしてい
ないのです。そのとき、2人がやったことについて、青山透子氏
は次のように述べています。
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 1985年8月14日のジャパンタイムズ紙によると、事故発
生の翌日、13日に中曽根首相と加藤紘一防衛庁長官が、マンス
フィールド大使同席のもとで、米軍のクラフ米太平洋軍とティッ
シュ在日米軍司令官に会い、加藤紘一防衛庁長官からクラフ氏に
勲章を渡している。その勲章は
     The First Class Order of the Rising Sun
というものであったと記載されている。そして米空母ミッドウェ
ー艦載機の発着訓練基地の確保、自衛隊の継戦能力の充実、防衛
協力に関する首相の努力等について語り合っていたという。
 (中略)しかしながら、12日に墜落事故が起きて、今まさに
現場で遺体を収容している翌日に勲章を渡すとはどういうことな
のだろうか。このようなおめでたい話には緊急性がなく、通常は
お互いに配慮して延期することも可能なはずである。
 アントヌッチ氏の証言によると「墜落上空でいち早く駆け付け
た米海兵隊を帰還させて他言無用の支持を出した」在日米軍の最
高責任者に、墜落現場にまだ行っていない首相が、何に対して勲
章を授けて上げたのだろうか。 ──青山透子著/河出書房新社
  『日航123便/撃墜の新事実/目撃証言から真相に迫る』
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 このことからわかるように、時の中曽根首相の123便事故に
対する対応は非常に冷たいものです。この事件には、米軍も少な
からず関与しているにもかかわらず、こともあろうに勲章の授与
式をやるとは何事でしょうか。ここは、延期すべきであり、延期
しても米軍に対して失礼にあたらないはずです。
 次の事実は「高濱機長」の制服の紛失事件です。これについて
は、10月25日のEJ第4876号でも事実を指摘しています
が、機長だけ制服がなくなっている事実です。
 123便のコックピットでは、左に高濱機長、右に佐々木副操
縦士、後方には福田航空機関士が座っていたのです。比較的狭い
場所であり、本来であれば、3人とも遺体は同じような状況であ
るはずです。しかし、高濱機長の遺体だけが異常であり、制服も
なくなっています。
 次は、3人の検視番号です。番号が若いほど、早く確認された
ことを意味しています。
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        高濱機長 ・・・・ 125番
     佐々木副操縦士 ・・・・  80番
     福田航空機関士 ・・・・ 461番
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 一番早く見つかったのは佐々木副操縦士の遺体です。着衣、す
なわち制服は残っていて、それで身元確認が行われています。し
かし、遺体は炭化していたのです。福田航空機関士については、
発見は遅かったのですが、服装で身元確認が行われています。制
服は残っていたのです。遺体は副操縦士と同様炭化していたので
す。しかし、高濱機長の遺体は炭化しておらず、制服がないので
す。機長だけ制服がないのは明らかに異常です。誰かが密かに持
ち去ったとしか考えられません。
 整理してみます。狭いコックピット内の3人は同じ状況である
ので、制服については、3人とも着ているか、3人とも着ていな
いかであればわかるし、遺体の状況についても、3人とも炭化し
ていないか、3人全員が炭化していないのであれば理解できるの
です。しかし、機長だけ、制服がなく、炭化していないのです。
なぜ、機長だけ状況が異なるのでしょうか。
 横田基地への着陸を自衛隊機に阻止されて、ベテランの高濱機
長は、何が起きているか悟ったものと思われます。それについて
機長は何らかのメモを書き、制服のポケットに入れたのではない
かと疑心暗鬼になったのです。そこで、最初に現場に入った特殊
部隊が機長の制服を探し、おそらく持ち去ったのではないかと思
われます。青山氏は次のように述べています。
─────────────────────────────
 あの時、機内では墜落を悟った乗客たちはそれぞれ遺書を書い
ていた。胸ポケットに忍ばせたり、社用の封筒に書き残したり、
時刻表に書いたり、様々であった。もし、機長だけがなんらかの
事実を知り、それを書き記していたとしたらと考えてみても、必
死の操縦で機体をたてなおしていた最中に遺書のようなものを書
き残すことは不可能に近い。
 あくまでも想像の範囲だが、一つの可能性として考えられるこ
とは、機長の制服の中に「何かがある」ことを恐れた人が、墜落
後に回収したのではないだろうかということだ。つまり、副操縦
士や航空機関士とは全く関係がないが、機長だけが「知った」何
か、である。そして万が一、それが表に出ては困ると考えた人が
いるのではないだろうか、としか制服の行方がわからない理由が
思い当たらないのである。   ──青山透子著/河出書房新社
          『遺物は真相を語る/日航123便墜落』
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         ──[日航機123便墜落の真相/053]

≪画像および関連情報≫
 ●遺物から迫る123便事件/隠蔽、捏造、改ざんの連鎖
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   「朝まで燻り、炎まで上がっている現場状況、消防団の臭
  いや目撃証言を総合的に見ていくと、遺体状況の比較を加味
  して考えれば、ケロシンではそこまでならない。ジェット燃
  料のケロシンは、不時着や突発的事態によって燃料を空中に
  捨て去ることも多いために引火点も高く、きわめて安全性が
  高い」と青山さんは書く(79頁)。123便は国内線であ
  るから、残り燃料は1時間半分だけで、上野村の住民が大き
  な飛行機がくるくる回っている状況を「燃料でも捨てている
  のではないだろうか」と語っていることから、青山さんは、
  高浜機長が不時着に備えて燃料を減らしていた可能性も否定
  できないという。そうだとすれば、なおさら燃料は減るわけ
  だし、何より、夏の山は木々の繁った湿度の高い環境で10
  時間以上も炎を出してケロシンが燃え続けるというのは説明
  がつかない、とも。山火事を経験した消防団の人たちも、乾
  燥している冬山ならまだしも、夏でここまで真っ黒に燃える
  ことに疑問をもっていたという(79〜80頁)。
   今回の本の白眉は、御巣鷹の尾根から回収された遺物の科
  学鑑定である(128〜143頁)。上野村の住民たちは、
  様々な遺物を尾根から拾い集めて大切に保存していた。それ
  を青山さんが入手して、T大学(現段階ではあえて名前を伏
  せられている)の金属化学研究機関に、学術研究の一環とし
  て分析依頼を行った。      https://bit.ly/2AJHhCh
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日本航空機長の制服.jpg
日本航空機長の制服
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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