に一歩引いた姿勢であるといわざるを得ません。同様にもう一人
の当事者である加藤紘一防衛庁長官も事件後ぜんぜん姿を現して
いません。国家(自衛隊)が加害者であると仮定すると、その姿
勢はとてもよく理解できます。しかし、当時墜落事故の政府の対
応を批判する報道はあまりなかったように記憶しています。まさ
か政府が加害者であるとは誰も思わないからです。
一方、加害者側である日本航空はどういう対応をしたかについ
て考えてみます。当時日本航空は半官半民で、歴代社長はすべて
経済界か運輸省からの天下りだったのです。したがって、日本航
空も政府側ということになります。
JAL123便の遺族に、吉備素子氏(現在74歳)という人
がいます。ご主人の吉備雅男氏(当時45歳)は、塩野義製薬次
長として出張中に事故に遭遇しています。吉備素子氏は、遺体安
置所で部分遺体となった夫の遺体と対面しています。
9月28日から49日の法要をはじめ、一連の追悼行事が行わ
れましたが、そんな慌ただしいなか、吉備素子氏は、日航本社に
高木養根社長を訪ねています。そのいきさつについて、吉備素子
氏は次のように話しています。
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9月頃に遺族に対して日航のほうから、身元不明の部分遺体や
炭化が著しいもの、骨粉など10月中にすべてを茶毘に付すとの
連絡があってね。検視の困難さも見ていたから、それもしかたが
ない、やむを得んなあと思っていたけど。10月4日に群馬入り
したら、血液検査を頼んでいた主人の足と思われる右大腿部の大
きなものまで、茶毘に付されていて、アッ無くなっているって驚
いたんです。事前の連絡とちがう。ひどいって、私は警察ともめ
だした。世話役が間に入って、警察と掛け合ってくれたけど、日
航は警察の検視現場に入るなと言われていたのを見てたしね。現
場責任者の日航重役の人も「僕らは何もできない」と、私らと一
緒に泣いて、泣いて・・・でも、泣いていたって、こんな状態で
10月中に全部茶毘に付すのはいかん、あんたらができんのなら
ば、直接、高木社長に会いに行きましょう、本社に行きましょう
と言って東京に行ったんです。 ──青山透子著/河出書房新社
『日航123便/撃墜の新事実/目撃証言から真相に迫る』
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そういうわけで吉備氏は日航の本社に乗り込み、高木養根社長
に会っています。高木社長は運輸省の出身ではなく、日航生え抜
きの社長です。それにしても、いきなり日航へ乗り込んで、よく
社長に会えたものですが、当然のことながら、日航としては遺族
には気を遣っていて、最優先に会ったものと思われます。その社
長との面接で、高木社長は意外なことを言い出したのです。
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日航本社の社長室に通されて、高木社長と実際に会って話をす
ると、山中の墜落現場にも行っていない、黒焦げの遺体も見てい
ない、彼はまったく現場を見ていない様子だった。
そこで「あのような状態で、遺体を茶毘に付しては520名が
浮かばれない。私と一緒に中曽根首相のところに行って直訴しま
しょう。あんたの命をかけても首相官邸に行ってください。そう
言ったんです。そしたら、急に高木さんはブルブルと震えだして
『そうしたら私は殺される』そない言うて殺されるってね。何っ
て思ったら、隣に座っていた女性的な世話役も、震え上がってい
る。なんで?と思った。一緒になってフルフルしている。本当に
怯えていた。殺されるって、命かけての意味がわからんのか、お
かしい、これはもうどうしようもない状態だった」と語る。
──青山透子著の前掲書より
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日本航空はこの事件の加害者の立場です。したがって、遺体の
処理に関する一切の業務をすべて担っています。したがって、ど
の時点で遺体を荼毘に付すかの判断も日本航空が決めています。
そもそも吉備氏が日本航空に乗り込んだ目的は、遺体をもっと
調べてから荼毘に付して欲しいということです。あきれたことに
高木社長は吉備氏に事故を起こしたことについて詫びてすらいな
いのです。それに加害者のトップが墜落現場はもちろん、遺体安
置所に運ばれてくる黒焦げの遺体をすらも目にしていない。だか
ら、吉備氏が要求していることも理解できないのです。
この時点では、既に後部圧力隔壁の修理ミスとの報道があり、
日航だけの責任ではないということになっていたし、まして自衛
隊の標的機による尾翼への激突の事実まで社長が知っていたとす
ると、ますます「オレたちのせいではない」という気持ちが強く
なります。したがって、吉備氏に会ったとき、とっさに詫びの言
葉がでなかったのでしょうか。それにしてもお粗末なことです。
まして、吉備氏が社長が決められないなら、一緒に中曽根首相
に会いに行こうと迫ると、「そんなことをしたら殺される」と発
言しているのです。首相に会いに行こうというと、「殺される」
とはどういうことなのでしょうか。
123便が墜落した12日の午後10時過ぎの羽田空港での出
来事です。人だかりができて、中央に中年の紳士が乗客の遺族に
胸倉をつかまれていたのです。「はっきり言え、飛行機はどうし
たんだ。どこへ行ったのか」と問い詰められています。
中年の紳士がそれに明確に答えられないと、「お前じゃ、ラチ
があかん。社長を出せ!」という話になったのです。そうしたら
その紳士は、真っ赤に顔を紅潮させ、次のようにいったのです。
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うちの機は、北朝鮮のミサイルに撃ち落とされたんだ。今は
それしかわからん!!
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この紳士は誰かというと、後に日本航空の町田副社長だったこ
とがわかっています。ここにミサイルという言葉が出てくるのは
違和感があります。──[日航機123便墜落の真相/052]
≪画像および関連情報≫
●死神から間一髪逃れた「キャンセル・リスト」の後半生
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間一髪で事故を免れた人もいる。シャープ元副社長の佐々
木正もその1人である。今年100歳を迎えた彼が、当時の
記憶をたぐり寄せる。昭和60年、佐々木はシャープの副社
長兼東京支社長の職にあった。12日は自宅のある大阪に帰
るため当便を予約していた。
ところが前日のこと、佐々木に「明日、会えないか」と連
絡をしてきた人物がいた。フィリップス社の東京支社長であ
る。「オランダ本社の社長が会いたがっているというんだ。
フィリップスとは、(CDプレーヤーなどに不可欠な)半導
体レーザーを共同で開発したり、液晶の生産拠点を設立しよ
うとしたりして、関係が深かった。それで年末に、社長が来
日して食事を共にするというのが恒例だったんだが、その年
に限ってお盆のその日になってね。だから飛行機の予約を変
更してもらったんです」
日航機事故のことを知ったのは、ホテルニューオータニの
レストランで会食しているときだった。ちょうど同じ頃、大
阪では悲鳴があがっていた。淨子(じょうこ)夫人は、夫が
123便をキャンセルしたことを知らされておらず、いつも
のように、伊丹空港まで迎えに来ていたのである。そこにも
たらされたのが事故の一報。「家内は、かなり遅くまで待っ
ていたようだ。いったんは私が亡くなったものとあきらめた
らしいですがね。ところが東京に残って仕事をしていること
を誰かが伝えてくれて、安心して帰宅したようです」
https://bit.ly/2CVRDRp
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日航高木養根社長
■日本航空の町田副社長『うちの機は、北朝鮮のミサイルに撃ち落とされたんだ。今はそれしかわからん!!』
■123便墜落事件。墜落後、いち早く墜落現場に入り、生存者には目もくれず、何かを探索した在日朝鮮人を集めた部隊がいた。当時、アーミーナイフや暗視スコープは自衛隊の装備品にはない。見た目は日本だが、日本人ではない。
●だから、「北朝鮮が爆破したか。携帯用の地対空ミサイルのスティンガーで撃墜した」と教えているのに、朝鮮人の撹乱工作にのって自衛隊が撃墜したとか、「平野おまえアホとちゃうか」と言いたい。