夜に入り込み、以来テントを張って長期間にわたり泊り込んで、
墜落現場全体を仕切っていたのは、間違いなく自衛隊であると思
われます。
墜落現場の山頂に行く途中で気分が悪くなった角田氏の友人が
テントで休ませてもらったとき、そこにいた隊員の一人から次の
言葉を聞いています。
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明日で一週間ですが、我々は一度も入れ替えなしですよ。13
日に山に来てからそのまま今も働いています。
──角田四郎著/『疑惑/JAL123便墜落事故
/このままでは520柱は瞑れない』/早稲田出版
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これはおかしな話です。炎天下の作業で、多くの遺体が散乱し
ている場所での重労働です。気分が悪くなる隊員も出てくると思
われます。それでも隊員を交代させないのは、何かウラがありま
す。それは、秘密の保持とも考えられます。ある秘密を守るため
には、それを知る人数は少なければ少ないほど守れるというのが
鉄則です。
しかし、不思議なことに、角田四郎氏と友人のような一般人が
墜落現場に立ち入ろうとしても、止めるどころか、逆に現場に行
けるよう支援すらしています。うがった見方かもしれませんが、
その方が、かえって疑われないので、そうしているのではないか
と思われます。
そのためなのでしょうか。よく見ると、全員が同じ服装ではな
く、群馬県警の服を着ていたり、テントも来ているはずのない神
奈川県警のものであったりと、全体がチグハグであると、角田氏
と友人は証言しています。
角田四郎氏が友人と一緒に墜落現場を訪れたさい、世話になっ
たという2人の群馬県警の機動隊員の幹部も、「機」のマークの
入った群馬県警の服を着ていたといいます。だからこそ、角田氏
らは群馬県警の人であると信じたのです。しかし、現場にいた新
聞記者たちによると、彼らは墜落現場の自衛隊員に命令をしてい
るようにみえたといっています。群馬県警の幹部が自衛隊を指揮
することなどはありえないことです。
角田四郎氏は、墜落現場に行って、JAL123便の墜落事件
には多くの不可解なものがあると感じたと述べています。墜落現
場の特定にしても、墜落現場での救難活動にしても、本気で取り
組んでいるとは思えないことが多々あります。「下手に生きてい
てもらっては困る事情」でもあったかのようにさえ思える行動な
のです。本気で生存者を救難させるつもりであれば、とったであ
ろう措置をとっていないとして、次のように述べています。
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その疑惑はまだある。
実は地図上で見れば一目瞭然であるが、墜落現場は群馬県であ
るが、人間が住んでいる村が近いのは断然長野県側である。車が
入る林道が近いのも同じだ。陸上自衛隊松本師団の小川隊のとっ
たルートは歩行時間2時間20分に対し、行先やルートが判って
いた上野村消防団の歩行時間は約4時間である点からも明白であ
る。この墜落現場のある高天原山(御巣鷹山ではない。長野県側
は神立山と呼ぶ)や三国山は、その東側は険しく山が深い(前山
が幾重にも連なる)が、西側は緩斜面が広がり、野辺山台地へと
続く。しかも、川上村には広大なグラウンドや畑があり、救難活
動の拠点作りに打ってつけである。それだけではない。道路も広
く野辺山や清里といった宿泊施設の多い観光地にも隣接し、中央
高速道経由で都市にも交通の便が良い。一体なぜこのルートが救
援活動に一度も使われなかったのであろうか。あまり語られてい
ないが、私は大変不可解なことの一つと思う。ヘリなら5分とか
からない村である。 ──角田四郎著の前掲書より
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123便の墜落場所が、自衛隊(防衛庁)は最初からわかって
いたことを示す語られざる話があります。12日、つまり123
便が墜落した夜のこと。群馬県藤岡市内のある葬儀社に一本の電
話が入ったのです。かけたのは地元の警察です。
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警 察:突然のことだけど、棺はどのくらい用意できる?
葬儀社:500ぐらいなら、なんとか。
──角田四郎著の前掲書より
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123便の遭難で騒然となっていたときのことですから、葬儀
社はピンときたのです。その葬儀社は、藤岡市内や周辺地区の組
合に相談のうえ、棺をどのくらい調達できるか調査して「500
でも1000でも大丈夫」と警察に連絡したそうです。しかし、
翌朝以降、葬儀社には何の連絡もこなかったそうです。
この棺の見積もりをさせたのは防衛庁であると思われます。地
元警察に命じて藤岡市の業者に棺を見積もらせたのは、墜落場所
を12日夜の墜落直後から把握していたことを意味しています。
そして、この時点で全員死亡を前提にしていたようです。実際に
藤岡市には、霊柩車70台、棺は800個用意されています。ど
こが用意したのかについて「週刊新潮」が書いています。
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東京周辺の葬儀社から800近くを用意し、藤岡市へピストン
輸送した。「800も用意したのは、遺体がバラバラなので、予
備が必要と考えたわけです。現地で注文しなかったのは、統一の
規格のものが用意出来なかったためと思います」(日航関係者)
──「週刊新潮」/1985年8月29日号
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800個の棺を用意したのは、東京西部日の出町平井にある共
和木工(株)という企業です。この企業については、明日のEJ
取り上げます。 ──[日航機123便墜落の真相/050]
≪画像および関連情報≫
●衝撃的な光景/JAL123便墜落事件
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昼前、捜索に向かう陸上自衛隊第13普通科連隊(長野県
松本駐屯地)の部隊と合流した。「これで助かった」と思っ
た。彼らは地図も強力な無線機も備えており、ついて行けば
現場に着けるに違いない。缶ジュースもなくなり、のども渇
き切っていた。水ももらえるだろう。
昼になると部隊は前進を止め、木の根元に座って、休憩と
なった。隊員はほとんど10代と思われるような若者で、年
長者は少なかった。若い人たちは水筒の水を飲ませてくれた
が、食料はだめだった。部隊は非常時の出動であり、もらえ
ないのは当然だが、腹が減っていたのでこたえた。
前進を再開して間もなく、樹林が切れて尾根のピークのよ
うな所に出た。ヘリの音からすると、そこから北東方向に分
かれた尾根のどこかに墜落現場はあるようだ。岩場に近いよ
うな場所もあり、登山経験のない2人は恐怖を感じることも
あった。
尾根のピークには、別ルートでやって来た複数の報道機関
の記者がいた。安達はその中に名古屋支社時代に知り合った
朝日新聞のS記者を見つけた。驚いて声を掛けたが、その後
どこに行ったのか姿は見えなくなった。そこから先は下りに
入った。原生林のような樹林が続いて薄暗く、斜面は湿って
いてかなりの勾配がある。足元は腐植土で不安定だ。部隊か
ら遅れないようにしなければならなかったが、慌てて腐った
切り株に足を乗せると崩れて滑落する恐れがある。木の枝や
幹をつかんで下らざるを得ず、手は傷だらけになった。
https://bit.ly/2zaPmhz
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検死場の藤岡市民体育館