明らかになっていないことがたくさんあります。添付ファイルの
新聞を見てください。これは、1985年8月13日付、日本経
済新聞夕刊です。見出しは次のようになっています。
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生存者7人発見
日航機残がい 山腹に散乱/群馬長野県境
──1985年8月13日付、日本経済新聞夕刊
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8月13日といえば、JAL123便墜落事件の翌日の夕刊で
す。驚くべきことに「生存者7人」となっています。生存者は4
人のはずです。しかし、当初は「7人」だったのです。ところが
とくに何の説明もないまま「4人」になったのです。あと3人は
どこに消えたのでしょうか。
9月28日のEJ第4858号では、事故当日の8月12日の
夜に仲間と一緒にオフロードバイクに乗って、JAL123便が
墜落した御巣鷹山の現場に入ったMさんの話を取り上げました。
その時点では、123便の墜落場所は判明していなかったので
すが、既に現場には70〜80人の自衛隊とみられる隊員がおり
何か作業をしていたのです。それは、明らかに乗客乗員の救出で
はない作業です。そのときの様子について、まとめた部分を再現
します。
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1.墜落現場では、自衛隊とみられる70〜80人が暗視ゴー
グルを付けて何やら現場から“破片”とみられるものを採取
する作業をしていた。何を採取していたのか。
2.自衛隊員とみられる一団は、当時現場には50人ほどの生
存者が呻き声を上げて苦しんでいたにもかかわらず、救助し
ようとはせず、破片採取に専念していたこと。
3.墜落現場近くの上空にはヘリがホバリングしており、自衛
隊員が採取した物質を入れたバッグを数十個単位で釣り上げ
て運搬していた。明らかに救助ではないこと。
4.Mさんと2人の仲間は、生存者10人ほどと話しをしてい
るが、そのなかには、指を負傷しただけとみられる男性もお
り、すぐ死ぬような状況でない人もいたこと。
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重要なことですが、このMさんの入った墜落現場は、御巣鷹山
の山頂部分の現場とみられます。少なくとも、4人の生存者が救
出されたスゲノ沢の現場ではないことは確かです。なぜかという
と、スゲノ沢は相当距離が離れており、山頂からは見えないから
です。まして夜間のことであり、見えるはずがないのです。
そうであるとすると、完全遺体でない遺体の多かった山頂の墜
落現場にも相当数の生存者がいたことになります。実際にMさん
は生存者の何人かと話しており、生存者のいたことは確かです。
それでは、この山頂の墜落現場に入って作業をした自衛隊とみ
られる部隊は、どのような任務を持つ部隊なのでしょうか。これ
については、池田昌昭氏が「影の軍隊」と称して、次のように記
述しています。
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航空自衛隊からは、戦闘機や、統制機等が参加。戦闘機のスク
ランブルと、侵入機に見立てての訓練実施の可能性。統制機と航
空基地指令との連絡態勢。
陸上自衛隊からは、ゲリラ戦専門部隊出動の可能性。グリーン
ベレー特殊部隊は、山岳地帯での行動を専門とする。その行動内
容は、すべてを含む。サバイバルは言うに及ばず、武器習熟、隠
蔽工作等々、軍事超人の出現である。
なぜこのように、先にカムフラージュ部隊が出動したのであろ
うか。その理由は何なのか。
理由はただ一つ。バレたときに備えての方策をあらかじめ考え
てのことだった。つまり正式部隊の展開の前に、それを一時スト
ップさせておき、その一方でカムフラージュ部隊が、都合の悪い
証拠物件をすべて回収してしまったということなのである。
逆に言えば、このカムフラージュ部隊の動きが、JAL123
便墜落事故のすべてを知っているので、あとから出動したたとえ
ば陸上自衛隊の本隊部隊は、現場に近づくことを阻止され、すべ
ての証拠隠滅が終了してから、現場に入ったということなのであ
る。すべての隠蔽工作が終わるまでには、翌13日の午前8時ぐ
らいまで必要だった。それまでは救助部隊の投入は押し止められ
た。もちろんそのことに伴って、墜落現場特定も翌日の午前5時
ぐらいまで引き延ばされていた。 ──池田昌昭著/文芸社
『御巣鷹山ファイル3/空白の14時間』
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自衛隊にこのような「影の軍隊」のようなものがあるとすると
この123便墜落事件で大きな役割を果たした浜松基地から発進
したという2機のファントム戦闘機は、まさしく航空の影の軍隊
に属するのです。横田基地に着陸しようとする123便にスクラ
ンブルをかけて山岳地帯に誘導し、最終的にミサイルを発射して
撃墜するなど、大活躍をしています。自衛隊がその存在を否定す
るのは当然です。
実は、いち早く墜落現場に入った陸上の影の軍隊は、13日の
朝になって本物の自衛隊が現場に到着してからも、現場に残って
本物の自衛隊と一緒に作業したことがわかっています。証拠の写
真もあります。本物の自衛隊は救助を行い、影の自衛隊は標的機
とミサイルの痕跡を示すものの撤去と役割は分かれていますが、
見た目は大勢の自衛隊員が救助作業をしているように見えます。
そのとき、影の自衛隊員が子供の生存者を抱いている写真があ
ります。しかし、その後、この子供がどうなったのかについては
まったく不明です。なお、山頂の現場からは一人の生存者も出て
いないのです。子供はその後どうなったのでしょうか。
──[日航機123便墜落の真相/047]
≪画像および関連情報≫
●なぜ、7人が4人に減ったのか/123便の生存者
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7人であるか、8人であるかは分からない。少なくとも、
4人以上であることは確かだ。御巣鷹の日航機123便生存
者の可能性である。当時の日経新聞にもはっきりと一面トッ
プに出ているではないか。その検証は、必要だ。何故、その
ニュースが消えたか?
消えたのではなかろう!消したのだろう。記事を消したの
は許そう。命を消すことは許せない。3人はその後どうなっ
たのか?徹底解明が求められる。情報の交錯なら、その事実
を明らかにすべきだ。誤報なら、誤報の経緯を解明すべきで
ある。それが蓉として為されていないのは、大きな疑問であ
る。はたして正確な調査・報道があったなら、こういう事に
はならなかったであろう。隠されたものは顕れるのである。
しかし、調べれば調べるほど、到底、明らかに出来ない闇の
事情が垣間見える。そう感ずるのは投稿者だけであろうか。
しかし、真実は明かされる必要がある。その理由は簡単だ。
まっとうな人間は、偽善に生きることを潔くしない。真理は
真実にこそ宿る。 https://bit.ly/2SgVKfL
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1985年8月13日/日本経済新聞夕刊
「Mさんの話」が作り話に過ぎないことは、第4859号に対するコメントで説明しました。
今回、平野氏が再びこの話を取り上げておられるので、平野氏の解説部分についてコメントします。
以下、『・・・』の中は、今号の記事からの引用。その下に私のコメント。
A, 『Mさんの入った墜落現場は、御巣鷹山の山頂部分の現場とみられます』
日航機が墜落した現場は、当時無名の尾根で、「御巣鷹山の山頂」からは南南西へ約2km離れています。
後に、当時の村長が「御巣鷹の尾根」と呼ぶことを提唱し、これが定着しました。
「御巣鷹山の山頂部分」でもないし、他の山の山頂付近でもなく、群馬と長野の県境を成す尾根筋から東方へ分かれて急勾配で下る支脈の尾根筋の途中が墜落現場です。
長野県側から入ったMさんが、どのようなルートで現場へ辿りついたかはわかりませんが、群馬と長野の県境を成す尾根筋を越えてから下ったことになります。
8月14日の朝、長野県側から現場へ入った藤田日出男氏と米田憲司氏は(それぞれ別ルート)、地形も厳しく樹木が生い茂って進路が困難だったことを著書に記しています。
日中でも進み難いコースを、夜間にMさんたちが歩けた可能性は極めて低い。
墜落現場付近は、戦後、落葉松を植林した人口林だが、それ以外は広い範囲で原生林です。
B, 『完全遺体でない遺体の多かった山頂の墜落現場にも相当数の生存者がいたことになります。』
第4859号に対するコメントで述べたように、完全遺体が極めて少ないから、上の方に生存者が多くいたことはありえません。
Mさんの話は作り話。
墜落時の衝撃の大きさから激突地点の付近で生存者はありえず、
斜面を下った所で生存者がいたのは、機体の最後部が樹木をなぎ倒しながら滑り降りたので衝撃が和らげられたため。
Mさんの話が本当なら、Mさんがその場を離れた後で自衛隊と見られる集団は、生きている人を大勢殺傷したことになり、
その前に目撃したMさん自身も、その場で咎められ殺されていたはずです。
生きている人を大勢、理由もなく殺傷する集団は、80年前の日本にはいましたが、38年前には存在しません。
2023,10,17―2
鷹富士成夢