──これは早い段階で墜落現場に入った複数の人たちが「ガソリ
ンとタールの臭いがした」と証言していることが根拠です。これ
は、ゲル状燃料といい、火炎放射器で使われます。これに対して
ジェット燃料「ケロシン」は、灯油の一種です。青山透子氏の本
から、その違いを以下に整理しておきます。
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◎ジェット燃料「ケロシン」
「引火点」:37°C〜65°C
灯油の一種。粘り気が低い液体・航空機燃料として、安全性
が高い。
「発火点」:残り燃料1時間半。3・3ヘクタール焼失。注ぎ
足しなしで不可能
◎火炎放射器(陸上自衛隊普通科所有)
「引火点」:マイナス40°C
ガソリンとタールの混合剤。揮発性が高く、引火しやすい粘
性、持続性あり。粘着成分が入っており、一度付着すると、
最後まで燃え尽くす。
「発火点」:300°C
朝まで燃えていた証言から、燃焼持続性のある物質で、注ぎ
足しが可能な状態であった。
──青山透子著/河出書房新社
『遺物は真相を語る/日航123便墜落』
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われわれには、巨大な金属の塊である飛行機を飛ばす「ジェッ
ト燃料」は、物凄い燃焼力を持っているのだろうという思い込み
があります。しかし、専門家によれば、ジェット燃料では、遺体
は炭化しないのです。墜落現場では、朝まで燻っていたり、燃え
ているところもあったようです。早朝、墜落現場に入った人は、
そういっています。
しかし、123便は国内線であるので、あまり多くの燃料を積
んでいないことや、高濱機長は、何とか不時着しようとしていた
ので、燃料は相当捨てているはずです。そういう意味からも、燃
料の量はかなり少なかったはずです。そのため、遺体が炭化した
り、朝まで燃えることはないのです。
添付ファイルは、青山透子氏の最新刊書(2018年7月)に
出ているものですが、明け方に墜落現場に入った地元消防団と警
察関係者が33年前に撮影したものです。
実は、事故調は、遺体の状況や、それについての専門家の見解
を報告書には書いていないのです。つまり、遺体の状況に関して
何らの疑問も抱いていないことになります。これほど、遺体が炭
化している異常さを何も感じていないのです。これは、明らかに
不自然であるといえます。
これに関して青山透子氏の調査は徹底しています。刑事事件を
主とする弁護士や裁判官、警察医といったプロの人たちに炭化し
た遺体の写真を見てもらい、専門的意見を求めています。彼女が
訪ねたそういう専門家の数は50人をゆうに超えています。
実はこういう青山氏の主張や指摘に反論する本はたくさん出て
います。なかには、明らかに事故調寄りの主張を展開し、青山本
の内容を荒唐無稽と非難する本もあります。
8月23日のEJ第4834号でご紹介した元共同通信社記者
堀越豊裕氏の本もそのひとつです。堀越氏は、非常に控えめでは
あるものの、一貫して事故調の見解は大筋で正しいと考えており
青山氏の考え方には否定的です。堀越豊裕氏は、青山本に対して
次のように書いています。
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青山の本は慎重に断定を避けているが、墜落は圧力隔壁の破断
による事故でなく、ミサイルや無人標的機が垂直尾翼に当たり墜
落した可能性を示した。本にはその推定を支える目撃証言などが
盛り込まれており、事故調の報告書や米国の内部資料には出てこ
ない。主な点を挙げれば、
@墜落前、日航機に向かう赤やオレンジ色っばい飛翔体の存在
A航空自衛隊のF4ファントムが墜落前、日航機を追尾
B墜落現場に火炎放射器の使用を疑わせるガソリンとタールの
においが残っていた、などである。
つなぎ合わせていくと、自衛隊がミサイルやそれに類する物体
を発射し、日航機に衝突、自衛隊機は日航機を追尾して状況を把
握し、ミサイルが当たった証拠を消すため最終的に火炎放射器で
現場を焼き尽くした──とも読める。
私の考えとは違う。米国と日本で積み重ねてきた取材を基に違
うと考えるのだが、それは私の考えであり、青山には別の考えが
ある。 ──堀越豊裕著『日航機123便墜落最後の証言』
平凡社新書/885
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堀越豊裕氏は、米国のボーイング社への取材を通じ、米国の視
点からこの事件を分析して本を書いています。したがって、12
3便のかつての尻もち事故のボーイング社の修理ミスが原因で、
急減圧による後部圧力隔壁の破断が起こり、それが垂直尾翼を破
壊したとする事故調の最終報告書と同じ意見です。しかし、事故
調公式見解の大きな矛盾には一切言及していないのです。
堀越氏は、青山透子氏との意見の違いについて次のように述べ
ています。単なる見方の違いである、と。
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人間は同じものを見ていても、どの角度からながめるかによっ
て受け止め方に違いが出ることもある。日航機事故の場合、事故
調の公式発表に加え、報道機関の独自取材も多く、関連の情報も
多い。どの情報に軸足を置くかによって、見方は変わる。
──堀越豊裕著の前掲書より
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──[日航機123便墜落の真相/040]
≪画像および関連情報≫
●「陰謀でもなく、日航機は撃墜されたとしか思えない」
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ボ―イング社の修理ミスによる圧力隔壁の亀裂、急激な空
気の流入による尾翼破損、操縦不能で墜落。これが最も知ら
れている520人の命を奪った大事故の原因である。全てが
公開されなかったボイスレコ―ダ―、二転三転した事故調査
委員会の文言・・・・・・・。事故から21年、まだ謎は解
けていない。
作家・安部譲二氏は日航機の客室乗務員だったという時代
がある。単発エンジン小型機の操縦免許も持っている。その
安部氏は1985年、日航ジャンボ機が群馬県の御巣鷹山に
墜落した事故を、事故ではなく、事件だと確信している。
著書、『日本怪死人列伝』(02年、扶桑社文庫)で安部
氏は、<無残に撃墜されたのだ>と断言している。
85年8月12日、羽田発大阪伊丹行きの日航機123便
ボ―イング747型機が墜落して520名という航空機単独
の事故としては史上最大の被害者を出した。飛行機事故の歴
史に残る大事故である。
この事故には、当時から数多くの疑問が投げ掛けられてい
た。「墜落した日の夜中に日航のスチュワ―デスをしていた
おばさんから電話があってね。日航のイチニイサン便が行
方不明≠ナ大騒ぎになっている、って言うんだ」事故発生の
時点で安部氏は首を傾げている。「だってね、あんな大きい
飛行機がいなくなっちゃったって言う。85年でしょ。その
頃は日本全国、軽飛行機ですら行方不明になるなんてことは
あり得なかった」 https://bit.ly/2OZrOWO
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朝まで燃え続ける123便墜落現場の火災