2018年10月04日

●「中曽根首相はいつ事故を知ったか」(EJ第4862号)

 JAL123便墜落事件では、あってはならないことがいくつ
も起きています。真偽のほどはわからないにしても、JAL12
3便は、自衛隊の艦船から発射されたミサイル標的機によって尾
翼を破壊され、油圧系統が完全に効かなくなって、操縦不能に陥
ります。まさに墜落必至の状況です。
 しかし、同機の機長である高濱雅己氏は、機を空気抵抗の強い
低空に降下させ、4つのエンジンをうまくコントロールして、横
田飛行場か羽田空港の近くまで、戻ってきたのです。専門家にい
わせると、この高濱機長の操縦は「神業」であるといいます。
 しかし、123便の機体には、標的機がぶつかった痕跡が残っ
ており、そのまま横田か羽田に不時着させるわけにはいかないと
いう上の判断が働いて、浜松基地から発進した自衛隊のファント
ム戦闘機2機が、123便にスクランブルをかけたのです。スク
ランブルをかけられると、かけられた飛行機は、その命令にした
がわざるを得なくなります。これが国際ルールです。
 そこで123便は、御巣鷹山方面に向うことになります。2機
の戦闘機は、123便を追尾します。しかし、高濱機長はここで
も何とか飛行機を高原に不時着させようと試みるのです。一人で
も多くの乗客乗員を助けたいという一心です。
 そういうとき、123便について防衛庁で自衛隊の高官とその
部下の仮説による対話です。明らかに部下のいっていることの方
が正論です。池田昌昭氏の本から引用します。
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・奇跡が起きるかも知れない。レタス高原に不時着するかも知れ
 ない。そうすれば自衛隊は批判され、反政府連動に火がつき、
 今まで営々と築いて来た支配体制がガタガタになってしまう。
・自衛隊という組織が破壊され、強いては政府という組織が破壊
 される。国家という組織が崩壊することになる。われわれは支
 配者を守り、支配者の命令に従うだけである。支配者の命令に
 服するのがわれわれの務めである。悪法もまた、法である。
・自衛隊は国家機関の背骨であり、自衛隊は弱みを国民に見せて
 はならない。自衛隊がガタつけば今の支配者にとっても国民の
 批判が集中し、今までの特権や権益が失われる。今までやって
 きたことが無駄になる。
・相手は、民間機です。戦争用の飛行機ではない。多数の民間人
 が搭乗しています。
・だから、極秘に作戟を行うのである。
・「天網恢恢疎にして漏らさず」のことわざの通り、悪事は必ず
 露呈することなのです。
・「天知る、地知る、吾知る」のことわざの通りなのです。分か
 らなければ良いのである。
・現に標的機の訓練のことは誰も知らない。知っているのは一部
 の幹部だけである。
・そのためには、秘密裏にことを運ばなければならない。「蟻の
 一穴」のことわぎがある。情報が漏れないように、しかも情報
 をコントロールし、国民の目を真実から逸らすのである。
・自衛隊はこのようなことのために訓練をして来たのであり、自
 衛隊がやってきたこと、やっていることに国民の眠が届き、監
 視され、すべてが白日のもとに晒されることは耐え難い。
・墜落現場は、立ち入り禁止としなければならないし、墜落地点
 の特定をできるだけ遅らせることである。
                  ──池田昌昭著/文芸社
 『御巣鷹山ファイル2/JAL123便は自衛隊が撃墜した』
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 実際にこのような対話が防衛庁のなかで行われていたかどうか
はわかりませんが、事態はまさにそのように動いています。あっ
たことをなかったことにしようとしているのです。「あったこと
をなかったことにはできない」といったのは、前川喜平元文科次
官ですが、日航機墜落事件では、まさにあったことをなかったこ
とにしてしまったのです。
 12日夜から13日の日の出の前にかけて、墜落現場は早々に
判明していたのに、NHKなどのメディアを使って全然別の場所
を示唆し、その間に墜落現場に約80名の自衛隊員を現場に投入
し、生存者をほったらかしにして、ミサイルの破片と思われるも
のを全員で採取しているのです。事実の隠蔽です。
 しかし、対話にあるように、これほどの重大事の隠蔽を役人だ
けの判断でやれるはずがないのです。カギを握るのは、時の総理
大臣中曽根康弘氏と、防衛庁長官加藤紘一氏の2人です。彼らは
この事件についていつ報告を受けたのでしょうか。
 中曽根康弘首相は、1985年8月8日の夜から軽井沢の「ホ
テル鹿島の森」に滞在し、事故日の12日は、17時11分発特
急あさま22号に乗車して、19時15分に上野駅に着いていま
す。JAL123便が18時56分に墜落したときは、列車内に
いたことになります。中曽根首相は、いつ、どこで報告を受けた
のでしょうか。
 このときのことについて、中曽根氏は、ご自身の本『中曽根康
弘が語る/戦後日本外交』(2012年・新潮社)のなかで、次
のように書いています。
─────────────────────────────
 日航ジャンボ機墜落の報告が私に届いたのは、軽井沢から東京
に戻る列車の中で午後7時過ぎでした。それで8時噴から首相官
邸の執務室に入って、即時に色々な報告を受けたし、こちらから
対策の指令も出した。国民に対して政府の正式見解を出すのは、
事態の調査に遺漏のない状態で、万全を期してから発表しなくて
はいかん。それまでは、私に留めて、私が合図するまでは公式に
発表してはならんと指示しました。
               ──青山透子著/河出書房新社
  『日航123便/撃墜の新事実/目撃証言から真相に迫る』
─────────────────────────────
         ──[日航機123便墜落の真相/032]

≪画像および関連情報≫
 ●第62回 『抛っておけない疑問』
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   21年前の御巣鷹山のクラッシュで、一番怪しいのは事故
  調(事故調査委員会)が出した結論と、それにボイスレコー
  ダーを、乗員のプライバシーを保護するという理由で、全公
  開しなかったことだ。
   事故調が出した「急減圧で圧力隔壁が破れ、その結果、垂
  直尾翼が吹き飛んで墜落した」という報告が、そのまま政府
  の公式見解となって定着している。しかし、急減圧なんか無
  かったのだ。
   今まで資料を見た限り、生き残ったスチュワデスの証言も
  あるし、それに日本航空乗員組合も、急減圧は無かったと断
  言している。急減圧が無ければ、圧力隔壁も破れないし、垂
  直尾翼が吹き飛ぶことも、四系統もある油圧システムが全部
  壊れて、その結果コントロールを失った123便が御巣鷹山
  に激突することも無かった。俺より若かった坂本九も、まだ
  元気に「上を向いて歩こう」と、唱っていただろう。日本の
  カタギは事故調査委員会なんて聞くと、実態をよく知らない
  のに、権威を信じてしまうのだから、ほとんど小学生並の頭
  だ。俺たちの先代の日本人は、最後には必ず神風が吹いて、
  アメリカ軍をやっつけてくれると、大真面目に信じて太平洋
  戦争を闘った。なんでも権力者が言ったことは、疑いもせず
  に信じることが美徳だったのだ。今でも日本人のほとんどは
  なにも疑わずに生きている。事故調は運輸省の組織だから、
  政府や日本航空、それに機体を製造したボーイング社の不利
  になる報告や結論は、出すわけがない。
                  https://bit.ly/2NhprtG
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レーガン大統領と中曽根首相/ロンヤス時代.jpg
レーガン大統領と中曽根首相/ロンヤス時代
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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