2018年10月03日

●「123便墜落の原因はミサイルか」(EJ第4861号)

 ここで問題を整理しておきます。JAL123便が、なぜ御巣
鷹山の山中に墜落しなければならなかったのかについては、次の
2つの説があります。
─────────────────────────────
 1.後部圧力隔壁に疲労亀裂が生じて破壊され、それに伴う
  急減圧で垂直尾翼が破壊され、操縦不能に陥り墜落。
             ─→ 事故調査委員会の最終結論
 2.自衛隊の標的機が、誤って123便の垂直尾翼に衝突し
  機は尾翼と油圧を失い、操縦不能になって山中墜落。
             ── 書籍などによる個人の調査
─────────────────────────────
 「1」は事故調の最終結論です。すべては、これによって決着
がついています。今さら、何をいっても、この見解が変わること
はありません。1990年7月17日に公訴時効も成立していま
す。その後、遺族が新情報を基に何度再調査を依頼しても国は一
切拒否しています。
 しかし、事故調の結論には数多くの矛盾があり、33年経過し
ても、多くの人が納得していないのです。そのため、事故調の最
終調査の矛盾を暴き、独自調査を加えた書籍が数多く出版される
ようになります。これが「2」です。
 「2」に関係する書籍のうち、最も優れているものとしては、
次の3つがあります。
 1993年発刊の角田四郎著の『疑惑』(早稲田出版)、19
98年発刊の池田昌昭著の一連のJAL123便の一連のシリー
ズ、そして、現在話題を呼んでいる青山透子著の一連のシリーズ
です。青山氏は、数多くの証言を揃えている点が、他のレポート
とは違う強い説得力を持っています。これら3人のライターは、
いずれも自衛隊の標的機による123便の垂直尾翼破壊を原因と
する「2」の仮説を支持しています。
 なかでも、この事件のそもそもの原因をズバリ率直に書いてい
るのは、池田昌昭氏のシリーズです。つまり、非常に書きにくい
ことを「仮説の世界」と断りながらも率直に書いています。その
要旨は次の通りです。
─────────────────────────────
 1.海自の護衛艦「まつゆき」から発射されたとみられる標
  的機が123便の垂直尾翼に衝突し、破壊したこと。これ
  によって、123便の操縦は極めて困難になる。
 2.123便の高濱機長は、それでも超人的な操縦でエンジ
  ンをコントロールし、横田か羽田の近くまできたところで
  自衛隊機によって山への方向変更を指示される。
 3.山方向に向った123便は、エンジンの推力を失いなが
  らも高原のレタス畑に不時着する可能性があり、追尾中の
  ファントム機のミサイル発射で墜落させられる。
─────────────────────────────
 国民の命を守る自衛隊が、乗客乗員524人が乗っている民間
旅客機、それも垂直尾翼と油圧系統を破壊され、超人的なテクニ
ックで、やっと飛行している瀕死の123便を、こともあろうに
ミサイルで撃墜させることなど、あり得ないことです。
 しかし、池田昌昭氏は、それがこの事件では行われていると書
いているのです。それならば、なぜそのようなことになったのか
について、自衛隊高官とその部下の仮説会話をご覧ください。
────────────────────────────
・このままの操縦でJAL123便はどうなるか。
・多分、山に誘導すれば力尽き、山にぶつかると思います。
・現在降下中で、高原のレタス畑に不時着するかも知れません。
・不時着されるとまずい。標的機が衝突したことが明らかになっ
 てしまう。
・不時着したときの生存率は?
・多分、10%以下でしょう。
・ミサイルで撃墜したときの生存率は?
・限りなくゼロに近いでしょう。
・サハリン沖の大韓航空007便のときは、後方5キロメートル
 の戦闘機から、ミサイルが2発撃ち込まれ、撃墜され、生存者
 は無しです。
・衝突した標的機の残骸は海上に落下しているので、これの方は
 直ちに艦艇を現場海域に集結させ、回収作業に入ることにする
・JAL123便が高原に不時着されると困る。
・始末する、とどめを刺すにしても命令が出ないとできない。
・緊急である。
・JAL123便は、自力で着陸できるか。
・うまくいけば、不時着するかもしれません。
・もう既に操縦能力の60%から70%は奪われています。墜
 落必至かもしれませんが、わかりません。奇跡が起きるかも
 しれない。
・ミサイルはどこに命中するか。
・熱線追尾方式のミサイルは、ジャンボ機の4つのうちのどれ
 かのエンジンの排気口目掛けて突進します。機体は破壊され
 ます。すべて今までに研究済みのことです。浮力は失われ、
 ほどなく真っ逆様に山に激突するでしょう。
・ただミサイルの発射のタイミングが難しい。ミサイルによっ
 てではなく、JAL123便自身の迷走最終段階で山にぶつ
 かったようにしなければならない。 ──池田昌昭著/文芸社
 『御巣鷹山ファイル2/JAL123便は自衛隊が撃墜した』
─────────────────────────────
 つまり、ミサイルを発射するが、その痕跡は消し、JAL12
3便がダッチロールのすえ、力尽きて、山にぶつかったように仕
向けようとしたのです。そういえば、「ダッチロール」──この
言葉はこの事件では、何回も使われるようになります。そしにし
てもミサイルのことは、誰も想像すらしなかったでしょう。
         ──[日航機123便墜落の真相/031]

≪画像および関連情報≫
 ●今明かす私が事故直後の現場で見た事実
  ───────────────────────────
   日本航空123便墜落事故の第一報を耳にしたのは198
  5年8月12日、仕事も終わり愛車のボルボ24GLEで帰
  路に向かう途中だった。家に帰ったら1歳になったばかりの
  娘とお風呂でも入ろうかと考えていたさなか、当時としては
  まだ珍しいショルダー携帯電話が突然鳴り出し、航空機が行
  方不明であることが同僚のカメラマンから告げられた。そし
  て慌ててNHKのラジオ番組を聞くと、「羽田発伊丹行きの
  JAL123便が18時56分頃、静岡上空で消息を絶って
  いる模様――」と何度も同じ情報が繰り返されていた。
   私はその足で新潮社に向かった。ラジオでは断片的な情報
  をつないで、「長野県、群馬県境の上野村、三国峠、南相木
  村当たりの山中に落ちた、米軍機から横田基地を通じて報告
  があり、捜査を開始したもよう」と報じていた。南相木村は
  取材で何度も行っていたので、土地勘があった。そこで私の
  車を使い、私とフォーカスの記者の2人で南相木に向かうこ
  とになった。
   東京を出発したのは午後8時半、南相木村の目的地に着い
  たのは深夜0時を過ぎていた。車で村に近づくにつれ、警察
  車両や消防団が目に入ってきたが、さらに進んでいくと警察
  官に小学校の校庭に誘導された。周囲を見渡すと報道関係者
  は、私たちだけだった。車をグラウンドの片隅に付け、運動
  会用のテントが張られた対策本部を覗くと、消防団員らしき
  人たちと駐在さんがいましたが、これといった情報はない。
  夜明け前に自衛隊が動くとの情報を得て、そのあとをついて
  行くことになった。       https://bit.ly/2xObAWL
  ───────────────────────────

2機のF4−EJファントム.jpg
2機のF4−EJファントム
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]