鷹山の山中に墜落しなければならなかったのかについては、次の
2つの説があります。
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1.後部圧力隔壁に疲労亀裂が生じて破壊され、それに伴う
急減圧で垂直尾翼が破壊され、操縦不能に陥り墜落。
─→ 事故調査委員会の最終結論
2.自衛隊の標的機が、誤って123便の垂直尾翼に衝突し
機は尾翼と油圧を失い、操縦不能になって山中墜落。
── 書籍などによる個人の調査
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「1」は事故調の最終結論です。すべては、これによって決着
がついています。今さら、何をいっても、この見解が変わること
はありません。1990年7月17日に公訴時効も成立していま
す。その後、遺族が新情報を基に何度再調査を依頼しても国は一
切拒否しています。
しかし、事故調の結論には数多くの矛盾があり、33年経過し
ても、多くの人が納得していないのです。そのため、事故調の最
終調査の矛盾を暴き、独自調査を加えた書籍が数多く出版される
ようになります。これが「2」です。
「2」に関係する書籍のうち、最も優れているものとしては、
次の3つがあります。
1993年発刊の角田四郎著の『疑惑』(早稲田出版)、19
98年発刊の池田昌昭著の一連のJAL123便の一連のシリー
ズ、そして、現在話題を呼んでいる青山透子著の一連のシリーズ
です。青山氏は、数多くの証言を揃えている点が、他のレポート
とは違う強い説得力を持っています。これら3人のライターは、
いずれも自衛隊の標的機による123便の垂直尾翼破壊を原因と
する「2」の仮説を支持しています。
なかでも、この事件のそもそもの原因をズバリ率直に書いてい
るのは、池田昌昭氏のシリーズです。つまり、非常に書きにくい
ことを「仮説の世界」と断りながらも率直に書いています。その
要旨は次の通りです。
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1.海自の護衛艦「まつゆき」から発射されたとみられる標
的機が123便の垂直尾翼に衝突し、破壊したこと。これ
によって、123便の操縦は極めて困難になる。
2.123便の高濱機長は、それでも超人的な操縦でエンジ
ンをコントロールし、横田か羽田の近くまできたところで
自衛隊機によって山への方向変更を指示される。
3.山方向に向った123便は、エンジンの推力を失いなが
らも高原のレタス畑に不時着する可能性があり、追尾中の
ファントム機のミサイル発射で墜落させられる。
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国民の命を守る自衛隊が、乗客乗員524人が乗っている民間
旅客機、それも垂直尾翼と油圧系統を破壊され、超人的なテクニ
ックで、やっと飛行している瀕死の123便を、こともあろうに
ミサイルで撃墜させることなど、あり得ないことです。
しかし、池田昌昭氏は、それがこの事件では行われていると書
いているのです。それならば、なぜそのようなことになったのか
について、自衛隊高官とその部下の仮説会話をご覧ください。
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・このままの操縦でJAL123便はどうなるか。
・多分、山に誘導すれば力尽き、山にぶつかると思います。
・現在降下中で、高原のレタス畑に不時着するかも知れません。
・不時着されるとまずい。標的機が衝突したことが明らかになっ
てしまう。
・不時着したときの生存率は?
・多分、10%以下でしょう。
・ミサイルで撃墜したときの生存率は?
・限りなくゼロに近いでしょう。
・サハリン沖の大韓航空007便のときは、後方5キロメートル
の戦闘機から、ミサイルが2発撃ち込まれ、撃墜され、生存者
は無しです。
・衝突した標的機の残骸は海上に落下しているので、これの方は
直ちに艦艇を現場海域に集結させ、回収作業に入ることにする
・JAL123便が高原に不時着されると困る。
・始末する、とどめを刺すにしても命令が出ないとできない。
・緊急である。
・JAL123便は、自力で着陸できるか。
・うまくいけば、不時着するかもしれません。
・もう既に操縦能力の60%から70%は奪われています。墜
落必至かもしれませんが、わかりません。奇跡が起きるかも
しれない。
・ミサイルはどこに命中するか。
・熱線追尾方式のミサイルは、ジャンボ機の4つのうちのどれ
かのエンジンの排気口目掛けて突進します。機体は破壊され
ます。すべて今までに研究済みのことです。浮力は失われ、
ほどなく真っ逆様に山に激突するでしょう。
・ただミサイルの発射のタイミングが難しい。ミサイルによっ
てではなく、JAL123便自身の迷走最終段階で山にぶつ
かったようにしなければならない。 ──池田昌昭著/文芸社
『御巣鷹山ファイル2/JAL123便は自衛隊が撃墜した』
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つまり、ミサイルを発射するが、その痕跡は消し、JAL12
3便がダッチロールのすえ、力尽きて、山にぶつかったように仕
向けようとしたのです。そういえば、「ダッチロール」──この
言葉はこの事件では、何回も使われるようになります。そしにし
てもミサイルのことは、誰も想像すらしなかったでしょう。
──[日航機123便墜落の真相/031]
≪画像および関連情報≫
●今明かす私が事故直後の現場で見た事実
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日本航空123便墜落事故の第一報を耳にしたのは198
5年8月12日、仕事も終わり愛車のボルボ24GLEで帰
路に向かう途中だった。家に帰ったら1歳になったばかりの
娘とお風呂でも入ろうかと考えていたさなか、当時としては
まだ珍しいショルダー携帯電話が突然鳴り出し、航空機が行
方不明であることが同僚のカメラマンから告げられた。そし
て慌ててNHKのラジオ番組を聞くと、「羽田発伊丹行きの
JAL123便が18時56分頃、静岡上空で消息を絶って
いる模様――」と何度も同じ情報が繰り返されていた。
私はその足で新潮社に向かった。ラジオでは断片的な情報
をつないで、「長野県、群馬県境の上野村、三国峠、南相木
村当たりの山中に落ちた、米軍機から横田基地を通じて報告
があり、捜査を開始したもよう」と報じていた。南相木村は
取材で何度も行っていたので、土地勘があった。そこで私の
車を使い、私とフォーカスの記者の2人で南相木に向かうこ
とになった。
東京を出発したのは午後8時半、南相木村の目的地に着い
たのは深夜0時を過ぎていた。車で村に近づくにつれ、警察
車両や消防団が目に入ってきたが、さらに進んでいくと警察
官に小学校の校庭に誘導された。周囲を見渡すと報道関係者
は、私たちだけだった。車をグラウンドの片隅に付け、運動
会用のテントが張られた対策本部を覗くと、消防団員らしき
人たちと駐在さんがいましたが、これといった情報はない。
夜明け前に自衛隊が動くとの情報を得て、そのあとをついて
行くことになった。 https://bit.ly/2xObAWL
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2機のF4−EJファントム