2018年09月26日

●「なぜ、防衛庁は時間を稼いだのか」(EJ第4856号)

 ここまでの経緯を考えると、JAL123便の墜落場所につい
ては、政府当局としては、かなり早い時点で正確に把握していた
ものと思われます。なぜなら、墜落現場の上空にまで到達しなが
ら、墜落場所の特定ができないはずがないからです。それでいな
がら、場所の測定では、墜落現場と大きく外れた場所の情報を送
り続けているのです。意図的としか考えられないのです。これは
早々に救援隊が墜落現場に入って欲しくない何らかの事情が政府
当局側にあったからです。
 そういうフェイク情報の発生源は、NHKとそのバックにいる
防衛庁であると思われます。角田四郎氏は、昨日のEJで述べた
横田基地の友人のノバック中尉がいう米軍のレスキューの話に続
いて、次のように述べています。
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 私は、日米の救難隊や軍にこれほどの差があるとは思わない。
あるのは、軍というもの、あるいは国家というものの考え方の違
いだと思う。防衛庁は国をまもるイコール国民をまもる・・・と
いうことをもう少し考えてはどうか。お国のため・・・式の旧軍
意識を捨てないかぎり、国民から、冷たい視線を向け続けられる
であろう。
 NHKもこうしたミス・リードを意図した気配のリーク情報ば
かりを追い、早々に入手していた「群馬側」情報を葬り続けたの
である。これには何か理由があったのだろうか。川上村の井上証
人の場合、「NHKにいくらいっても群馬側と信じてもらえず、
最後はいやいや『群馬側に限りなく近い長野県』にされてしまっ
た」と当夜19時30分過ぎのNHKとの電話のやりとりを語っ
ている(「プレイボーイ」85年11月26日号)。ここに出て
きたニセ情報発生源は、どうやら防衛庁とNHKであることが、
はっきりした。──角田四郎著『疑惑/JAL123便墜落事故
      /このままでは520柱は瞑れない』/早稲田出版
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 問題は、なぜ、123便の墜落場所を翌日の午前5時まで隠さ
なければならなかったかです。その原因のひとつと考えられるも
のに、123便の荷物のなかに「医療用のアイソトープがある」
という事実が判明したことです。
 実は、123便は離陸直前に、日航の東京空港支店航務部と交
信をしています。そのとき、東京空港支店航務部は次のことを告
げています。これは、離陸直前にはいつもやるやり取りです。
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 はい、えー、それから123便、危険品の搭載がございます。
「RRW」と「RRY」、場所は貨物のほうからお聞き下さい。
                  https://bit.ly/2zp3ZiC
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 「RRW」と「RRY」は、航空業界で使用されているコード
で、いずれも放射性物質のことです。RRWは第1類白、RRY
は第2類黄・第3類黄と危険度別に分類されています。この事実
は、123便の墜落後の20時過ぎに、日本アイソトープ協会か
ら123便にラジオアイソトープ72個が積まれていることを警
察庁に届け出ています。ラジオアイソトープは放射能を発生する
ので、日本アイソトープ協会は、不用意に墜落現場に入るのは危
険であるという警告をしたのです。
 放射能ですから、当然リスクはあり、墜落場所立ち入りに慎重
にならざるをえませんが、そうだからといって、乗客・乗員の命
がかかっているのです。核爆弾を積んでいたわけではなく、墜落
場所を隠すほどの要因にはなり得ないし、国民にそのことを告げ
ればよいのです。放射能といっても、レスキュー隊が、ちゃんと
装備をして入れば、何も問題は起こらないからです。
 結局、123便搭載の放射性物質が救援活動に支障なしの判断
がなされたのは、緊急事態発生から10時間25分後の、翌13
日、午前4時50分だったのです。確かにそれ以降に救助隊の活
動は活発化しています。
 結局、123便の墜落現場には、12日、20時42分に百里
基地からKV−107の救難ヘリと、13日、午前0時36分に
今度は墜落現場に最も近い入間基地からもKV−107ヘリが墜
落現場上空まで行っているのですが、いずれも墜落現場には降り
ていないのです。「現場には降りてはならない」との指示があっ
たものと思われます。それに万全の準備をして、日本側の要請を
待っていた米軍横田基地の救援も拒否しています。これは、アイ
ソトープの問題だけでなく、墜落現場から何かを探して、現場か
ら持ち去る必要があったからです。
 墜落後、少しでも早い時間に救助ヘリが現場に降りていれば、
たったの4人ではなく、もっと多くの人を救えたかもしれないの
です。4人の生存者の証言によれば、墜落直後には、多くの人の
声や息遣いが聞こえたと証言しているからです。アイソトープの
件だけを理由に、墜落現場に立ち入らなかったのであれば、あま
りにも非人道的です。
 『疑惑/JAL123便墜落事故』の著者、角田四郎氏は、こ
のJAL123便墜落事故に対しての防衛庁の対応に非常に疑問
き、強い怒りを抱いています。それが次のような文章になってい
ます。政治がどう対応したのかは、詳しく述べますが、この墜落
事故のときの防衛庁長官は、加藤紘一氏です。
─────────────────────────────
 墜落現場の捜索にしても、墜落現場での救難作業にしても、あ
まりにも不可解な疑問が多過ぎはしないか。そして、その言いわ
けも陳腐である。本気で生存者の有無をつかみ救出しようとする
気があったのであろうか。へたに生きてもらっては困る事情でも
あったかのようにさえ思える一連の行動である。自衛隊というよ
り、防衛庁のほうにより深い疑惑を向けざるを得ない。
              ────角田四郎著の前掲書より
─────────────────────────────
         ──[日航機123便墜落の真相/026]

≪画像および関連情報≫
 ●遅れた救難と素早い事情聴取/墜落現場
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   生存者発見から病院搬入までかなりの時間を要したこと当
  時の私の記録に残されている。私のメモには「11時生存者
  発見、12時仮設ヘリポートヘ、ヘリポートで1時間30分
  以上待たされ14時15分ごろやっと病院へ搬入」と記録さ
  れている。これは現地から帰って10日ほどした頃、現地の
  関係者と新聞記者、運輸省関係者からの情報で記録したもの
  であった。やっと救出された4名の重傷者をヘリポートで、
  1時間半も持たせだのはどうしてなのか?生存者は骨折ショ
  ック症状、頭部の外傷など救急治療を必要とする状態であっ
  た。翌1986年の4月25日、この事故に関する聴聞会/
  現在は意見聴取会が開かれた。その数日後、私の家の郵便受
  けに、茶色の大型の封筒が二つ折りにして無理やり突っ込ま
  れていた。封筒の3分の1ほどしか郵便受けに入らず、風が
  吹けば落ちそうな状態だった。
   差出人の名前は無かった。不審に思いながら、かなり重い
  封筒の封を聞いてみると、数十ぺージはあると思われる書類
  のコピーが入っている。それ以外は何も入っていなかった。
  内容は、あの事故の4名の生存者に対する事故調査官と思わ
  れる人のインタビューの記録であった。調査官の名前は、記
  載の無いものもあるが、防衛庁航空自衛隊の小原甲一郎医官
  が質問しているものがほとんどであった。その内容を同席し
  た運輸省の事故調査官が筆記したと思われる。
                  https://bit.ly/2zpgP0m
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御巣鷹山事故当時の加藤防衛庁長官.jpg
御巣鷹山事故当時の加藤防衛庁長官 
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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