2018年08月27日

●「なぜ、原因は圧力隔壁破壊なのか」(EJ第4836号)

 高々度を飛行する航空機には、人のいる区域には、地上と同じ
1気圧の「与圧」が必要です。これを「与圧区域」といいます。
しかし、人が立ち入らない区域まで与圧する必要はなく、その区
域を「非与圧区域」といっています。
 その与圧区域と非与圧区域を隔てる機体設備を「圧力隔壁」と
いい、航空機の前後に設けられています。圧力隔壁は、圧力に耐
えうる頑丈さが求められますが、その外側に位置する非与圧区域
は、与圧に耐える強度を持たせる必要はないので、これによって
飛行機全体の軽量化を図ることができます。
 しかし、圧力隔壁が破れたさいに、与圧に耐えられない部分が
破壊する恐れがあるので、隔壁のうしろの構造に圧力を逃すため
の安全弁などを設ける必要があります。第1次中間報告の事故調
の見解は、何らかの原因で機内に急減圧が起こり、それによって
後部圧力隔壁が吹き飛び、垂直尾翼を壊したというものです。
 航空機の尾翼部分の構造図を添付ファイルにしてあります。後
部圧力隔壁の位置を確認してください。隔壁の上部には垂直尾翼
があり、確かに何らかの事情で機内の与圧区域に急減圧が起こり
その勢いで後部圧力隔壁が破壊された場合、それが垂直尾翼に重
大な影響を与えることは十分あり得ることです。
 しかし、その急減圧がなぜ起きたのかが、明確になっていない
のです。これについて角田四郎氏は次のように述べています。
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 客室内の与圧空気が機体のどこから流出し、減圧が起こったの
か、まだ判っていない。それどころか生存者の証言から急減圧は
なかったとする意見や、ごく小さな減圧と見る専門家も多い。仮
に事故調のいうとおり、たいへんな急減圧があったとしても、そ
れが機の操縦性を奪った事故の主因であるとなぜわかるのか。な
にか他に原因があり、その結果として急減圧に至った可能性を全
くさぐろうとしないのはなぜなのか。ともあれ、この段階で事故
調査委貞会の原因究明は、隔壁説一本に早くも絞られていく。し
かも、それに見合った発見や発表がなぜかその後矢継早に登場す
るのである。 ──角田四郎著『疑惑/JAL123便墜落事故
      /このままでは520柱は瞑れない』/早稲田出版
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 なぜ、事故調が圧力隔壁破壊説にこだわったのか──その一つ
の根拠とされるものに、JAL123便に就航したJA8119
号機の「前科」があります。それは1978年に起きています。
 1978年6月のことです。JA8119号機は、大阪国際空
港(伊丹市)に着陸するさい、仰角を大きく取り過ぎて、機体後
部を滑走路にぶつけるという事故を起こしています。明らかな操
縦ミスです。これは「しりもち事故」といわれています。
 これによって、JA8119号機は、機体後部下方を著しく損
傷し、内部の圧力隔壁の取り付けフレームなどにゆがみが生じ、
隔壁の下部が変形してしまったのです。これについては、米ボー
イング社の専門スタッフを米国から招いて、隔壁下部の取り替え
修理などを行い、運輸省の検査をパスして再び就航していたので
す。御巣鷹山の墜落事故はその7年後に起きています。
 このしりもち事故のことは、JAL123便がダッチロールし
ている時点で、既にテレビで何回も報道されており、私の記憶に
も残っています。事故調も早くから、しりもち事故で飛行機の後
部を損傷したことと、後部圧力隔壁破壊は関係があると考えてい
たことは確かです。しかし、墜落の2週間後の8月27日に行わ
れた事故調の第1回の中間報告では、後部圧力隔壁破壊がこの事
故の主因であることを公表しています。
 実はこのとき、米運輸安全委員会(NTSB)の幹部、ロン・
シュリード氏をチーフとする調査チームと、ボーイング社の調査
チームが日本にきていたのですが、日本の事故調との間がうまく
いっていなかったといわれています。このことは、元共同通信記
者の堀越豊裕氏の本に次のように出ています。
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 事故調は、どかどか乗り込んできた米国の調査チームを快く感
じていなかった。自分たちで調査をやり遂げたいという思いが強
かったのだろう。八田らは戦前、米国に勝つための航空機開発に
明け暮れ、敗戦後はしばらく一切の航空機研究の機会を米国に奪
われた。刑事捜査の対象になり得るボーイングはもとより、NT
SBについても現地入りに慎重な姿勢を崩さなかった。
      ──堀越豊裕著『日航機123便墜落最後の証言』
                    平凡社新書/885
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 堀越氏の本によると、JAL123便墜落事故が起きたとき、
米国はテロを疑い、事故調査官のジョージ・サイドレン氏を日本
に派遣したのです。しかし、テロではないことはすぐわかったの
ですが、このサイドレン事故調査官が大変横柄で、日本の事故調
とぶつかったのです。このサイドレン氏について、ロン・シュリ
ード氏は「日本人といまだに第2次世界大戦を戦っているように
見えた。困った男だった」といっています。それに事故調は、独
自に日本に乗り込んできたボーイング社の調査チームともうまく
いっていなかったといいます。
 しかし、シュリード氏の働きによって、米NTSB調査チーム
は、ボーイング社の調査チームと一緒に御巣鷹山の現場に入るこ
ができています。8月22日と24日のことです。その御巣鷹山
の現場での調査によって、シュリード氏は圧力隔壁にボーイング
社の修理ミスを発見し、そのことを日本の事故調で現場キャップ
を務める調査官の藤原洋氏に伝えています。つまり、この墜落事
故は、しりもち事故を起こしたJA8119号機を修理したさい
の修理ミスが原因であることを告げていたのです。
 しかし、この報告は、事故調の第1次中間報告では、無視され
ています。不可解なのは、なぜ、ボーイング社は、自らが不利に
なる修理ミスをあわただしく認めたのでしょうか。きわめて不自
然です。     ──[日航機123便墜落の真相/006]

≪画像および関連情報≫
 ●日航ジャンボ機墜落事故30年目の真相/2015年
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   何気なくTVを見ていたら、日航ジャンボ機墜落事故30
  年の真相という番組がやっていた。ずいぶん昔の事で、うろ
  覚えだが、事故直後は、触れられていなかった事もあり、あ
  らためて見て、そうだったのかと知った事もありました。
   私だけの認識かもしれないが、事故直後ほかにも生存者が
  いた事などは当時あまり大きく報道されていなかったような
  気がする。それ以上に驚いたのは隔壁の継ぎ板の件である。
  当時、事故原因は隔壁の金属疲労といっていたような気がす
  るが、修理ミスと言うのは知らなかった。
   当時すでにわかっていたことなのだろうが、私が気づかな
  かっただけかもしれないが、修理ミスと言うのは、あまり大
  きく報道されていなかったような気がする。隔壁の修理指示
  書には継ぎ板は1枚もので書かれいたにもかかわらず、実際
  は継ぎ板は2枚に分かれて取り付けられており、継ぎ板とし
  ての役目を果たしておらず、強度不足になっていたことで、
  応力が集中して破壊に至った、と事故の真相を報じていた。
   しかし修理を担当した米国のボーイング社は、事故後1か
  月足らずでミスを認めたが誰が何故ミスを犯したかは明かさ
  なかった。修理の実態に呆れながらも、外務省を通して群馬
  県警がボーイング社に乗り込み捜査に乗り出したが、門前払
  いで捜査にはならなかったらしい。報道では初めて、この修
  理を担当した一人と連絡が取れインタビューをしていたが、
  その修理担当は修理ミスではない、継ぎ板は最初から2枚に
  分かれていた、通常の事だと訳されていた。
                  https://bit.ly/2OY5MAb
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航空機尾翼部分名称.jpg
航空機尾翼部分名称
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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