2018年08月21日

●「そのとき機内で何が起きていたか」(EJ第4832号)

 33年も前のことですから、JAL123便がどのようにして
事故発生に至ったのか忘れている人も多いと思うので、時系列的
にまとめておきます。これは、8月12日午後7時頃から、13
日過ぎまでに、メディアで伝えられた最初の情報です。
 1985年8月12日(日)の午後6時の羽田空港レポートを
見ると、好天・気温29度・南西の風8メートル、すべての離発
着機において、良好なコンディションと記録されています。この
時刻において、空港周辺に雷雲の発生や乱気流の発生は報告され
ておらず、天候による事故の予兆はまったくなかったのです。
─────────────────────────────
◎18時04分:JAL123便、18番スポットを離れる。
◎18時12分20秒:離陸。JAL123便は東京湾を横断し
 千葉県木更津の航空標識をチェック。右旋回し、機首を東南か
 ら南に向けて上昇を続け、館山にある航空標識手前で羽田と交
 信。「行ってまいります」と告げ、続けて、所沢の東京航空管
 制部の管理下に入る。機は同管制部と交信。
◎18時17分頃:「現在位置から、シーパーチへ直行したい」
 と要求。
◎18時19分頃:同管制部の許可を受ける。
◎18時24分頃:「ドーン」と大音響を発す。離陸から12分
 が経過したあたり、場所は大島と伊豆半島の中間、相模湾上で
 ある。
◎18時25分頃:大島の西20海里(約37キロ)を飛行中。
 24、000フィートから、22、000フィートに降下した
 い。大島へレーダー誘導を頼む。
◎ほぼ同時刻:「スコーク77」発信。
◎18時31分頃:東京管制部が、名古屋への着陸が可能か尋ね
 るが、羽田に帰りたいと答える。
◎18時41分頃:右側最後部ドア(R5)に異常あり、との連
 絡を日航オペレーションセンターに交信。
◎18時54分頃:「操縦不能」の通報。「自機の位置がわから
 ない」の問いに管制部は、羽田の西北83キロ、熊谷の西46
 キロと伝える。
◎18時55分頃:管制部より、羽田、横田とも緊急着陸の準備
 完了、いつでもアプローチを開始してよい、と伝えたが、応答
 なし。
◎18時56分頃:羽田、所沢両レーダーかに機影消える。
       ──角田四郎著『疑惑/JAL123便墜落事故
      /このままでは520柱は瞑れない』/早稲田出版
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 角田四郎氏は、フリーライターですが、山岳関係には詳しいも
のの、航空の専門家ではないのです。ただ、親友の恋人だった日
航のスチュワーデスがJAL123便の事故に遭遇し、亡くなっ
たことから、事故原因究明に8年かけて取り組み、前掲書をまと
めておられます。大変な労作です。
 専門用語について、説明が必要であると思います。「シーパー
チ」とは何でしょうか。
 「シーパーチ」とは「非義務・位置通過点」という意味です。
本来であれば、館山ポイントを通過することになっているが、そ
れをカットし、シーパーチに行くということはよくあることであ
り、その許可を求めたものです。これは、事故には何の関係もな
いことです。
 問題は「スコーク77」です。これは、緊急事態の発生を告げ
る信号です。これについて、角田四郎氏は次のように解説してい
ます。
─────────────────────────────
 「スコーク77」という聞きなれない言葉がある。緊急事態発
生を告げる「国際救難信号」で別名「7700」とも称されてい
る。つまり空のSOSである。これはあくまで「信号」で音声で
はない。この信号がオンにされると、周辺の全てのレーダー画面
に「E・M・G」この3文字が点滅する。あらかじめ情報入力し
てあるATCのレーダー画面には、それを発信した機名も同時に
表示される。つまり「E・M・G・JAL123」である。E・
M・Gはエマージェンシーの略号である。さらにATCではレー
ダーを監視する管制官のヘッドホンに「ピーッ」という警報音が
鳴る。このとき同一空域にある全ての航空機はATCの監督下に
置かれ、自由な航行は一切禁止されてしまう。それだけに、この
信号の使用は慎重の上にも慎重を期すことを求められている、重
大緊急事態を告げる信号である。 ──角田四郎著の前掲書より
─────────────────────────────
 このように、航空機が「スコーク77(7700)」を発信す
るのはよくよくのことなのです。しかし、気味の悪いことがあり
ます。ちょうど、1年前の2017年8月12日のことですが、
羽田空港発/伊丹空港行きのANA37便が、離陸直後の相模湾
付近で「スコーク77」を発信したのです。さいわい、羽田空港
に緊急着陸できたのですが、日付といい、行き先といい、「スコ
ーク77」を発信した場所といい、JAL123便とそっくりで
す。しかし、これはあまり知られていない出来事です。
 なお、「スコーク77」は、「7700」といいますが、連番
の信号に次のものがあります。
─────────────────────────────
       7500 ・・・ ハイジャック
       7600 ・・・  通信機故障
       7700 ・・・ 緊急事態発生
─────────────────────────────
 問題は、JAL123便は、なぜ「スコーク77」を発信した
かです。そのとき、機内では一体何が起きていたのでしょうか。
手かがりは十分あります。なぜなら、JAL123便の事故には
奇跡的に4人の生存者がいたからです。
         ──[日航機123便墜落の真相/002]

≪画像および関連情報≫
 ●速すぎる「スコーク77」
  ───────────────────────────
   長い123便の情報を集めてきて、いまだに私の中で解消
  できていない疑問が大きく二つあります。ひとつは衝撃音が
  あったときに、キャビンではベルト着用のサインが点灯して
  いたのか?それとも点灯していなかったのか?そしてもうひ
  とつ最大の疑問は「スコーク77」発令のタイミングです。
   スコーク77は、航空機における最高度の国際救難信号で
  す。スコーク77を発した航空機には無線・航路・滑走路の
  全てにおいて優先権が与えられます。もちろん自衛隊・米軍
  においても同様で、最優先で救援のための手段が検討されま
  す。周囲の航空全てに影響のある、非常に重大なステータス
  と言えます。
   それゆえ、スコーク77は簡単に発令できるものではあり
  ません。発信には、手順とチェックリストが用意されていま
  す。伝聞になりますが、手順にしたがってチェックリストを
  消化した場合、通常でも2〜3分、どんなに急いでも1分は
  かかってしまうそうです。そこで、発表されている123便
  のボイスレコーダー記録を見てみましょう。機長によるスコ
  ーク77の発令が18時24分42秒、副操縦士による復唱
  が18時24分47秒となっています。衝撃音が18時24
  分35〜36秒とされてますから、衝撃音から機長による発
  令までが7秒、副操縦士の復唱までが11秒しかかかってい
  ないことになります。もちろんこの時点では、機体はほぼ操
  縦不能の状態に陥っているのですが、クルーたちはその事実
  をまだ知りません。知っているのは衝撃音とそれに伴うGの
  変化のみ、減圧の体感もありません。チェックリストを無視
  する理由は見つかりません。この状況を、いったいどう判断
  すればいいのでしょうか。    https://bit.ly/2PhvsZs
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JAL123便と酷似しているANA37便.jpg
JAL123便と酷似しているANA37便
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(1) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
平野浩様

A, 

青山著に続いて何冊もの本を読みましたが、このうち、無人標的機に関するものとしては下記3氏の記述があります。

1、「吉原公一郎著=ジャンボ墜落、1985年11月発行」のP52〜53、P66〜68、P79〜80に下記。

DFDRを見ると、HSTBが24分35秒に大きく跳ね上がっている。HSTBのセンサーは圧力隔壁の後ろ側、垂直尾翼の付け根付近についている。
垂直尾翼に衝撃が加わったことにより、このセンサーが破損している。

相模湾から回収された垂直安定板を見ると、衝撃や圧力に強い部分が破損し、比較的に弱い部分がそのままになっている。
薄い外板は大きくめくれているが、その内側のハニカム構造は支柱や横桁についたままである。
上部に、押しつぶしたような破壊痕があり、垂直尾翼の外部から何かが衝突した可能性がある。
右斜上方から加えられた衝撃によって垂直安定板と方向舵が瞬間的に破壊され、相模湾に落下したと推定される。
その衝撃によってHSTBのセンサーもこわれた。

自衛隊の標的機が日航機の垂直尾翼に衝突した可能性がある。

2、「角田四郎著=疑惑、1993年12月発行」に下記。

P371〜372、朝日新聞記事からの引用で、「高速標的機の撃墜1機(1472万円)」、「防衛庁が85年11月〜86年10月までの1年間に出した主な損害」、「・・・・高速標的機を実際に打ち落とした・・・・・」と紹介し、これが日航123便の垂直尾翼に衝突して墜落した「無人標的機」のことではないかと推定される。

P414、「・・・・・ 日航123便は、相模湾上で試運行中の未納入護衛艦艇(まつゆき)の様々なテストのために飛ばされていた自衛隊保有の標的機と接触、垂直尾翼に損傷を受け、風圧またはフラッター現象様の作用が発生し、垂直尾翼は一瞬にして後方へ大きく倒壊した。・・・・・・・・・私の仮説は以上のようなものである。」

3、「池田昌昭著=JAL123便A、1998年9月発行」に下記。

P116 「・・・・たぶん「謎の飛行物体」は、速度の速いJAL123便に向かって右側斜め上から接近し、衝突の時点には右後方斜め上から、まず方向舵あたり、同時に垂直尾翼に後ろからクロス衝突し、左側下方にその「謎の飛行物体」が抜けていった形となったのではなかったのか。・・・・・・・・・・」

しかし、角田説の「垂直尾翼は・・・・・後方へ倒壊した」は、DFDRのLNGG,VRTG,などのデータと矛盾しますから成立しません。。
また、日航機は440ノット(秒速220m)で飛行中ですから、後方からの池田説の「謎の飛行物体」は超音速でなければ日航機の垂直尾翼を破壊させることはできず、当時、そのような飛行体は存在しませんし、DFDRのデータとも矛盾します。
結局、角田著に記載されているとおり護衛艦「まつゆき」から無人標的機が発進されたと推定されますが、衝突の仕方は吉原説が真相に近いと考えます。

B,
 
EJ第4833号でも紹介されているように、事故調報告書(P311)に示すCVRの冒頭、24分12秒に客室乗務員の「・・・たいとおっしゃる方がいらっしゃるんですがいかがでしょうか?」という声が録音されていて、通常はベルト装着サインが消えている時点なのに、この時には点灯していたことを示しています。
次に、24分15秒から18秒に、副操縦士と航空機関士の「気をつけて」、「じゃ気をつけてお願いします」、「手早く」、「気をつけてください」という声が録音され、声の緊張度がやや高まっていることが、事故調報告書の分析(P87,P89)で確認されています。

C,

以下、異常事態発生前後の経過について私の推定です。

1985年8月12日18時12分に羽田空港を離陸した日航123便は、18時21分頃に伊豆大島北方の相模湾上空に達した。
機長は日航機の右斜め前方遠くに不審な飛翔体を視認、一旦消したベルト装着サインを再点灯、操縦士の声に緊張度が高まる、
18時24分35秒、飛翔体が日航機の垂直尾翼上端に衝突、7秒後の24分42秒にスコーク77を発信。この間、およそ3分。
機長は、飛翔体が小さいためその距離と高さを実際よりも遠く高くに誤認していた。
日航機は垂直尾翼の大部分を失い、油圧管も破断し、急速に油圧を失っていった。
右旋回して羽田へ戻ろうと操作したが、旋回途中で油圧消失によりエルロンが中点に戻って直進し、伊豆半島を横断して駿河湾を西進した。


                     2023,9,27           鷹富士成夢
Posted by 鷹富士成夢 at 2023年09月27日 14:09
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