2001年3月になって内閣府は「緩やかなデフレ」と初めて
認定しましたが、デフレは昨日今日なったのではなく、1990
年代全部がデフレであったといえます。というのは、最も包括的
な物価動向を示すといわれるGDPデフレータは、1994年〜
2000年度まで、消費税の引き上げのあった1997年をのぞ
いてすべてマイナスであるからです。
問題はなぜデフレになったかです。そこで、とくに「失われた
10年」といわれる1990年代に大蔵省や日銀が行った金融政
策を中心に見ていきたいと思います。
1985年9月――ニューヨークのプラザホテルで開催された
先進5ヶ国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)で、米国は「強いド
ル」路線を放棄して、ドル高是正のための協調介入に同意すると
提案し、各国、とくに日本はこれに同意したのです。これが「プ
ラザ合意」ですが、今考えると、この「プラザ合意」からすべて
がはじまっていたといえると思います。
1985年――米国は膨大な貿易赤字で苦しんでいたのです。
これを解決するには、米国の輸出を増やして輸入を減らす必要が
あるわけですが、そのためには「ドル安」にすることが必須の条
件になります。
これを実現するにはどうすればよいかというと、日銀が外国為
替市場で持っている大量のドルを円に替えればよいのです。そう
すれば市場に大量のドルがあふれるのでドルの価値は下がり、ド
ル安になります。しかし、それに応じて円の価値は逆に上がるこ
とになります。つまり、「円高/ドル安」に向かうことになるわ
けです。
プラザ合意直前の円は、1ドル=240円だったのですが、わ
ずか2ヶ月で円は200円を割り、翌1986年7月には1ドル
150円という急激な円高となってしまったのです。
この1986年7月に宮沢喜一氏は大蔵大臣に就任するのです
が、大臣になるやいなや宮沢氏は次々と大胆な金融政策を打ち出
したのです。まず、急激過ぎる円高を是正するため、強力なドル
買い介入を行うとともに、11月には公定歩合を0.5%下げて
3.0%とし、1987年2月にはさらに公定歩合を2.5%ま
で下げてしまったのです。
金融政策は日銀の専管事項のはずですが、このときは事実上の
決定権限は大蔵省が握っていたのです。この宮沢蔵相の打った金
融緩和策は劇的な効果をもたらし、景気は1986年11月を底
に一転回復に向かうことになったのです。
宮沢蔵相はさらにこれに加えて1987年5月には6兆円を超
える「緊急経済対策」を決定し、それに上乗せしたのです。景気
が回復しかけているときに大きな財政政策を打ったのですから、
景気が過熱するに決まっています。しかも、公定歩合の方は2.
5%に据え置いたままであったので、やがてバブルが発生してく
ることになります。
そのとき日銀は何を考えていたかです。時の日銀総裁は三重野
康氏です。三重野総裁は何とか金融を引き締めたいとチャンスを
窺っていたのです。そこに地価暴騰という現象が出たのを機に日
銀は2.5%に据え置かれていた公定歩合を3.25%に引き上
げたのです。1989年5月のことです。
三重野総裁はその後何かに取りつかれたように1年ほど間に公
定歩合を引き上げ、1990年8月には公定歩合は6.0%に達
したのです。
さらに日銀は1990年4月まで2ケタ増だったマネタリーベ
ース――すなわち、流通現金と日銀当座預金の残高の合計のこと
ですが、これを対前年同月の伸び率を1991年2月の2.7%
まで一貫して絞っていき、さらに1991年11月から1992
年10月までの1年にわたり、資金供給量を前年同月比マイナス
に引き締めたのです。
このあと実証していきますが、歴代日銀首脳はひどいインフレ
恐怖症であり、何かというとすぐ金融を引き締めるのです。何が
そんなに心配なのでしょうか。当時一般物価は別に上昇してはい
ないし、むしろ1990年3月に実施された不動産関連融資総合
規制と、いわゆる3業種規制で地価が下がりはじめており、むし
ろ経済はデフレ基調にあったのです。景気は明らかに減速しつつ
あったのです。ちなみに3業種とは、ノンバンク、不動産、建設
業のことをいいます。
積極的な金融緩和策のやり過ぎで景気を過熱させた宮澤蔵相と
徹底的な引き締め策の三重野日銀総裁――この2つMが日本経済
を根底からおかしくさせてしまったのです。このようにして失わ
れた1990年代がはじまることになります。
1991年7月に景気後退がだれの目にも明らかになると日銀
はやっと公定歩合を6.00%から5.50%に引き下げます。
しかし、明らかにタイミングが遅れていたのです。しかも、マネ
ーサプライを増加させる手を何も打っていないのです。
1992年の経済状況において金融緩和が必要だったというこ
とは誰の目にも明らかで、当時故金丸信自民党副総裁までが金融
緩和を叫んでいたのです。それから、上智大学の岩田規久男教授
(現学習院大学)をはじめとする優れたエコノミストたちも日銀
は手形や国債の買いオペによって積極的にマネーサプライを増や
すべしという主張を展開していたのですが、日銀は聞く耳をもた
なかったのです。
日本経済は、1992年には2四半期にわたりマイナス成長と
なり、株価は1万4000円台に落ち込み、マネーサプライの伸
び率は戦後初のマイナスになっていたにも関わらず、日銀は危機
の認識が遅れていたのです。
なぜ、日銀は金融を引き締めようとするのでしょうか。それは
インフレに対する強い恐れとデフレに関する知識が不足している
ためです。だから「デフレを愛する日銀」などと揶揄されるので
す。むしろすべてが分かっていて、あえてデフレに誘導している
のではないかとさえ考えてしまいます。デフレになると何か日銀
にとってよいことがあるのでしょうか。
−−[円の支配者日銀/06]
2001年07月11日
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