2007年06月22日

●日本の「小さい政府」への挑戦(EJ第2107号)

 70年代以降、田中角栄型の社会主義政策が展開されるように
なって日本政府は急速に「大きな政府」になっていったのです。
しかし、80年代に入ると、その揺り返しとして「大きな政府」
の流れに歯止めをかけ、財政を再建しようという動きが出てきた
のです。
 この動きは80年代後半から90年代のはじめにかけて、財政
収支が黒字に転換し、政府規模の拡大に歯止めをかけるという大
きな成果を生んだのです。日本政府のはじめての「小さい政府」
への挑戦の成果といってよいでしょう。
 しかし、90年代に入ってバブルが崩壊すると、景気は一挙に
後退したのです。そのため、何度も景気対策としてケインズ政策
がとられたので、財政収支は再び赤字に戻り、国債残高は累増し
ていくことになります。
 この80年代の「小さな政府」への挑戦をプランニングしたの
は、1980年の臨時行政調査会(以下、臨調)、1983年の
臨時行政改革推進審議会(以下、行革審)による答申なのです。
 臨時行政調査会は、昭和30年代後期に同名の審議会が設置さ
れているので、「第2次臨調」と呼ばれています。なお、「第2
次臨調」と「行革審」の答申は、その路線は基本的には同じであ
り、以下はまとめて臨調と呼ぶことにします。臨調の答申は次の
ように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 明治の富国強兵政策や戦後の経済発展政策は、追いつき型近代
 化の過程では有効であったが、追いつき型近代化に成功した今
 日では、民間がその活力を自由に発揮できるように、規制の緩
 和・撤廃等の措置を徹底する行政改革が不可欠である。
     ――岩田規久男著、『「小さな政府」を問いなおす』
                     ちくま新書616
―――――――――――――――――――――――――――――
 これらの行政改革は財政構造を改革することを可能にするので
2つを合わせた行財政改革が「小さな政府」を目指す改革の目標
として掲げられたのです。この改革の流れが中曽根内閣から橋本
内閣まで受け継がれてきたのです。
 財政再建はある局面では、どうしてもやらざるを得ないもので
すが、そういう意味で80年代はじめの臨調による財政再建の動
きは適切なものだったといえます。しかし、気をつけなければな
らないのは、時期尚早の財政再建です。その典型的な失敗例は橋
本内閣のそれであるといってよいと思います。
 橋本首相が行財政改革に着手しようとしたのは1997年のこ
とです。当時、橋本首相にそう仕向けたのは、米国のクリントン
政権と当時の大蔵省(現財務省)なのです。このとき、米国政府
も大蔵省もバランスシート不況を認識していなかったのです。
 橋本首相は、次の4点セットで財政赤字を一挙に減らそうとし
たのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       1.消費税率の2%引き上げ
       2.社会保障負担費引き上げ
       3.特別減税廃止を決定する
       4.大型補正予算見送り決定
―――――――――――――――――――――――――――――
 橋本首相は、1996年の財政赤字が22兆円だったので、こ
れによって15兆円を減らそうとしたのです。ところが、これは
無謀な政策であり、1997年度こそ財政赤字は20兆以下にな
ったものの、そこから経済は5・四半期連続でマイナス成長とい
う最悪の結果になってしまったのです。
 当時の日本経済の構図は家計が1000円の所得のうち900
円を使い、100円を貯蓄していたものを企業がバランスシート
の正常化を図るため借りて使わないので、代わりに政府が借りて
使っていたので、辛うじて経済が回っていたのです。そういう時
期に政府は、100円を借りることをやめてしまったのですから
経済が回らず経済規模が縮小して行ってしまったのです。
 本来であれば、消費税率を3%から5%に上げたのですから、
税収が増えていなければならないのに、逆に財政赤字が16兆円
も増え、1999年には38兆円にまで拡大してしまったのです
から、大失敗であったといえます。
 もともと財政再建を仕掛けたのは、橋本内閣の官房長官、梶山
静六だったのです。梶山は第2次橋本内閣の組閣で橋本に進言し
与謝野馨を官房副長官に起用させたのです。これはまことに異色
の人事であったのです。
 なぜなら、官房副長官というポストは、自民党の総裁派閥の有
望な若手議員の登竜門として位置づけられているのですが、与謝
野は既に文相経験があり、若手ではないこと――それに総裁派閥
の小渕派でもなく、そういう意味で異色の人事だったのです。つ
まり、梶山が財政再建をやるにはどうしても不可欠の人物と考え
ていたからです。
 挨拶に官邸にやってきた与謝野に対して梶山は次のようにいっ
たといわれています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 俺は組織いじりには何の興味もないんだ。君と2人で財政再建
 をやろうじゃないか。  ――清水真人著/日本経済新聞社刊
              『官邸主導/小泉純一郎の革命』
―――――――――――――――――――――――――――――
 梶山としては、自ら行革屋を気取り、官僚と重箱の隅をつつく
ような議論を好んで行い、官僚をやりこめて得意な顔をする橋本
首相の姿勢を内心批判していたのです。
 そこで橋本には好きなようにやらせておき、以前から温めてき
た財政再建を切れ者の与謝野と一緒にやり遂げて、政権の看板政
策として打ち出すことを考えていたのです。その梶山も与謝野も
企業によるバランスシートの正常化という行動にはまったく気が
ついていなかったのです。  ――[日本経済回復の謎/16]


≪画像および関連情報≫
 ・梶山官房長官の野望
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1996年1月中旬。首相官邸で官房長官・梶山静六が大蔵
  省・小村武ら主計局の幹部と向かい合っていた。
  「このままではこの国が滅びてしまうぞ。財政再建中期計画
  をつくれ!」。梶山は説明が終わるか、終わらないかのうち
  に強い調子でこう言い放った。小村たちが持参し、ご進講に
  及んでいたのは、1月下旬に始まる通常国会で96年度予算
  案と一緒に参考資料として提出する毎年度恒例の「財政の中
  期展望」だった。
             ――清水真人著/日本経済新聞社刊
              『官邸主導/小泉純一郎の革命』
  ―――――――――――――――――――――――――――

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posted by 平野 浩 at 04:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本経済回復の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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