2017年07月04日

●「築地はどのように構築されたのか」(EJ第4555号)

 築地・豊洲問題を正確に把握するには、まず「築地」がどのよ
うにしてできたのかについて、少し歴史を振り返ってみる方法が
あります。難しい問題を考えるとき、歴史から入ると重要なヒン
トが掴めるものです。築地の歴史を知るうえで参考にしたのは次
の論文です。一部を引用し、一部を要約することにします。
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     中沢新一(文)深澤晃平(図版協力)
           「築地アースダイバー」
    『現代思想』2017年7月臨時増刊号
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 太田道灌が武蔵野の地に建設した江戸城は、後北条氏の所有に
なっていたのです。豊臣秀吉によって後北条氏が滅ぼされると、
秀吉は家康を彼の本拠地である駿河から武蔵の地に移させること
を決断します。秀吉としては、家康の力を何とかして削いでおき
たいと考えたのです。当時武蔵は未開の地であり、家康としては
相当の覚悟をもってこの地に乗り込んだのです。
 当時の江戸は、武蔵国と下総国の国境である隅田川の河口の西
に位置し、日比谷入江と呼ばれる入江が、後の江戸城の間近に入
り込んでいたのです。家康の目に飛び込んできたのは、葦と萱の
原野の広がる武蔵野と、台地の上に残された廃墟のようになった
城館、そして茫漠と広がる海の光景であり、町と呼べるようなも
のは一切なく、毎日の食材を手に入れるのも苦労する状態だった
といいます。
 そういう家康を救ったのは、佃村と大和田村の漁民たちなので
す。これについて、日本の人類学者で思想家でもある中沢新一氏
は、次のように書いています。
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 そのとき家康の近くに心強い味方がいた。大阪から家康につき
従ってきた佃村と大和田村の漁民たちである。彼らはひょんなこ
とから家康の知遇を得て、本能寺の変、関ケ原の役、大阪の陣で
も海賊的海民らしい、頼もしい活躍をした。この佃・大和田の難
波漁民たちは、建設のはじまった江戸に住んで、白魚をはじめと
する海の食材を江戸城に供給する役をになった。
                  ──中沢新一氏論文より
      『現代思想』2017年7月臨時増刊号/青土社刊
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 家康は、何はともあれ、江戸城の建設と、その前に広がる海の
大規模な埋め立てに佃村と大和田村の漁民たちの手も借りて、取
りかかったのです。このとき日比谷入江が埋め立てられて出現し
たのが日本橋です。佃村と大和田村の漁民たちは日本橋の住民に
なったのです。
 彼らは、毎朝海に漕ぎ出して魚や貝を採り、江戸城や大名たち
に収めた残りを販売しても良いという許可をとったのです。この
頃になると、江戸の人口は急増し、魚や貝の買い手にこと欠くこ
とはなかったのです。浦安や芝の漁民は早くから江戸市中に小さ
な魚市場を開設し、江戸町民に魚を売っていたので、佃・大和田
両村の漁民、すなわち、日本橋の住民たちも負けてはいられず、
何とか日本橋に自分たちの市場を開設したいという思いを強くし
ていたのです。
 そして、その日本橋に魚市場を開設するという日本橋住民の願
いは認められたのです。まず彼らは、隅田川の河口分に浮かぶ中
州を埋め立てます。これが「佃島」です。この対岸の日本橋に開
いたのが日本橋魚河岸です。
 明暦3年(1657年)に大火が起きます。俗にいう「振袖火
事」です。この火事は、築地ができる重要なきっかけになるので
す。これについて小沢新一氏の論文から、引用します。
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 この火事で大量の瓦礫が出た。この瓦礫を日本橋の西方にある
「鉄砲洲」の先にある海に沈めて、埋立地の拡大を図ろうという
計画が立てられた。このとき佃島漁民は率先して埋め立て工事を
請け負った。その理由は、佃島を自分たちだけの力で海中に築造
してみせた彼らこそ、江戸きっての埋め立て工事の熟達者であっ
たということと、東国の一向宗門徒のための本願寺別院を埋め立
てられた土地に建ててよいという許可が得られたからである。佃
島の漁師をはじめ、江戸湾周辺の漁民のはとんどすべてが、一向
宗(浄土真宗)の門徒であった。
   『現代思想』2017年7月臨時増刊号の小沢新一の論文
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 このように、振袖火事の残骸である大量の瓦礫を海に沈め、そ
れに台地を削り取った土を運んできて、海の埋め立て作業が進め
られたのです。この作業を担ったのは佃島漁師が中心です。この
努力によって、鉄砲洲の西南には広大な新しい埋立地が、海中か
ら出現します。
 瓦礫と土を築いて固めて出来た土地という意味でこの地は「築
地」と命名されます。しかし、既に日本橋には魚河岸があり、築
地は魚市場ではなく、寺町になったのです。浄土真宗の寺院や墓
地が次々と建立され、一部の地域は、いくつかの武家屋敷が建て
られたのです。したがって、築地界隈はかなり長い間、「閑寂な
場所」というたたずまいだったのです。
 しかし、幕末になると事情が一変します。ペリーが来航してい
らい、幕府は、近代的海軍を創設する必要性を痛感するようにな
り、築地川の東に海軍軍艦操縦所を建設します。この施設は本格
的な海軍の教育機関になり、ジョン万次郎や勝海舟が教授を務め
たのです。
 この海軍訓練所は、その後2度の大火によって焼失し、その跡
地に外国人専用の築地ホテルが建設され、多くの外国人が集まる
場所になります。その後築地には海軍省、海軍大学校、海軍軍医
学校、海軍省技術研究所などができるのです。魚市場としての築
地市場のできるのはまだ先の話です。
              ──[中央卸売市場論/002]

≪画像および関連情報≫
 ●築地市場周辺に残る、日本海軍発祥の史跡
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   「現在の築地市場周辺は、海を埋め立てて作った人工岸で
  あることは有名です。江戸時代中期の地図からは、すでに直
  線軸で整然と区画整備された区割や海岸線を確認することが
  でき、今日の街並みの原型を感じることができます。
   とはいえ、当時は江戸湾を望む静かな入り江だったようで
  す。陸奥白河藩主であり老中職にあった松平定信は老後、現
  在の魚市場がある区画を将軍より与えられた際、海を望む風
  光明媚な景色を大変気に入って、ここに松平家の下屋敷「浴
  恩園」を建造し余生を送ったと言われています。
   そんな平穏な海の町が軍事拠点へ変貌していったきっかけ
  それは、日本の歴史をも変えることになった黒船の来航でし
  た。江戸末期の1853年(嘉永6年)、横須賀にペリーの
  黒船艦隊が到着すると、幕府は西洋式海軍の必要性に迫られ
  急速に軍事力増強のための施策が計られるようになります。
   1855年(安政2年)、まずは長崎に「海軍伝習所」が
  完成します。ところが、江戸からは遠くて不便だったため、
  海に面した築地の地に2年後の1857年(安政4年)、軍
  艦の運転講習や航海術を学ぶための「軍艦教授所」が創設さ
  れました。長崎の「海軍伝習所」の第1期生であり、後に初
  代海軍卿となる勝海舟は1859年、この築地の「軍艦操練
  所」で教授方頭取を務めており、その際に<一連の施設名を
  「軍艦操練所」と改称しています。 http://bit.ly/2sADJvb
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日本海軍発祥の地「旗山」.jpg
日本海軍発祥の地「旗山」
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 中央卸売市場論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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