2001年07月05日

●日銀はなぜ資金供給を絞り込んだのか(EJ第652号)

 株価が2万円を超えていた2000年4月頃のことですが、日
銀の速水総裁は、ゼロ金利解除の時期を慎重に窺っていました。
そして、ゼロ金利解除のXデーを7月17日とひそかに決めてい
たのです。ちなみに、ゼロ金利政策を開始したのは1999年2
月のことです。
 速水総裁としては、1998年4月から施行された新日銀法に
よって日銀として念願の強い独立性を手に入れたあとの最初の大
きな金融政策がゼロ金利政策であっただけに、その解除も日銀主
導で行いたいと考えていたのです。
 新日銀法が施行される1998年3月までは、日銀総裁は大蔵
大臣が罷免できる権限を有しており、日銀の権限は限定されたも
のだったのです。そのため、グリーン・スパンFRB議長が機動
的・弾力的な金融政策を行っている米国や、強い権限を行使でき
る欧州の中央銀行に、日銀としては長くから憧れを抱いており、
独立を勝ち取ることは日銀の悲願だったのです。
 日銀法改正は、1997年に橋本首相の行政改革の一環として
提案されています。当時日銀副総裁であった福井俊彦氏がマスコ
ミや政治家に働きかけ、新日銀法によって、「金融政策の決定が
より迅速かつ柔軟になり、金融市場の信頼を高めることにも役立
つ」とさかんに主張したのです。
 福井氏のいうことが本当であったかどうかは後から詳しく論評
するとして、速水総裁が、迅速、柔軟、機動性にこだわったこと
は確かだと思います。しかし、速水総裁が最良のタイミングとし
て狙っていた7月14日のXデーは実現しなかったのです。そご
うが破綻してしまったからです。
 しかし、日銀は8月11日にゼロ金利解除を断行します。何が
何でもやらなければ・・・という速水総裁の決断からです。しか
し、8月は7月に比べてさまざまな経済指標が悪化し、経済環境
が最悪のときにゼロ金利解除を断行したのです。しかも、今から
考えれば、7〜9月期のGDPは前期比マイナス0.6%という
大幅なマイナス成長だったのですから、経済に対して猛烈な逆噴
射をかけたことになるのです。大蔵省としては必死になって止め
に入ったのですが、速水総裁はこれを断行してしまうのです。
 このときマスコミの反応は日銀に好意的であったといえます。
当時大蔵省が悪者にされていましたから、日銀はよく自らの意思
を貫いたと賞賛されたのです。このとき中原伸之審議委員、植田
和男審議委員は反対したと伝えられています。これについては、
昨年の8月8日のEJ438〜441で詳しく伝えています。
 しかし、皮肉なことに日銀がゼロ金利を解除した8月から景気
は減速し、調整局面に入っていったのです。日銀もそのことに気
がついてはいたのですが、強引にゼロ金利を解除したこともあり
それを素直に表明できなかったのです。
 ところで、いわゆるオーバーナイト金利を0.25%上げたこ
とがなぜ大問題なのでしょうか。当時の新聞紙上では、その程度
の利上げで企業収益に大きな影響が出るところは市場から退場す
べしという勇ましい意見まで出たのです。
 これに対して森永卓郎氏は、あるシンクタンクの試算を紹介し
ています。
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 『中長期的な成長径路、消費者物価1%の目標インフレ率、需
給ギャップ等を勘案したテイラー・ルールに基づいて試算する
 と、適正コールレートはマイナス4%にも達するという。つま
 りいまのコールレートはかりにゼロでも極端に高過ぎるのであ
 る。もちろんコールレートをマイナスにすることはできないが
 金利を引き上げる政策は明らかに誤っていたのだ』。(森永卓
 郎著『日銀不況』より。東洋経済新報社刊)
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 このようにゼロ金利解除は企業に大きな負担をもたらす結果と
なったのですが、もっと大きな問題は、このゼロ金利解除を実現
するために日銀が資金を絞ってしまったことなのです。
 市場に流通している現金――これを「流通現金」というのです
が、これと日銀当座預金の残高の合計を「マネタリーベース」と
いいます。このマネタリーベースは日銀が完全にコントロールで
きる資金なのです。
 このマネタリーベースは1999年12月以降、いわゆる20
00年問題に備えるためもあって対前年比で2ケタ増が続いてい
るのですが、2000年5月以降、低下しはじめ、12月には前
年同月比マイナス1.1%、さらに2001年1月にはマイナス
5.6%と大幅な資金供給量の減少となったのです。
 これをどのように考えるべきでしょうか。森永卓郎氏は、たっ
た0.25%のコールレートを守るために資金供給をマイナスに
なるまで絞り込まなければならなかったのは、それだけ実体経済
が悪化していたと考えるべきであるといっています。
 これだけ資金供給を絞れば当然株価に影響を与えます。日銀が
資金供給を絞り始めた2000年5月の時点では株価は2万円ぐ
らいの高値だったのですが、それからみるみるうちに株価は下落
をはじめ、2000年の年末にはバブル崩壊後の最安値となり、
2001年3月中旬には日経平均株価が1万2000円を割り込
む深刻な事態となったのです。
 それでも日銀は「景気は足踏み状態」と不況を認めようとしま
せんでしたが、遂に金融引締めを断念し、3月19日に金融緩和
に踏み切るのです。何とちくはぐな対応ではありませんか。
 そもそも2000年の春にわずかに出かかった景気回復の芽は
小渕政権が100兆円もの公的資金をはたいてやっと手にしたも
のだったのですが、速水総裁は日銀の権威や面子を守るために、
それを台無しにしてしまったことになります。
 3月19日の日銀の決定にはいろいろな疑問があります。それ
は今までと180度違う決定内容であったこと、それにそれは、
日銀審議委員の中原伸之氏の年来の意見をそのまま取り入れたも
のだったからです。クーデターが起こったのではないかという意
見すらあるほどなのです。
               −−[円の支配者日銀/02]
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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