2005年06月17日

大歌手と一演歌歌手の落差(EJ1615号)

 テレサ・テンの軍への積極的な協力によって、台湾政府におけ
るテレサ・テンの評価は大きく上昇したのです。これによって、
出国に関しても国が便宜を図ってくれるので、海外公演もスムー
スにやれるようになったといいます。
 1983年2月には、米国のラスベガスのシーザースパレスで
デビュー15周年を記念するワンマンショーが開かれています。
ちょうどそのとき、この会場では、3月にフランク・シナトラや
トム・ジョーンズの公演も予定されていたのです。
 ショーは午後8時から行われたのですが、通常なら500人程
度の観客が1000人以上も押しかけたため会場は大混乱になっ
たといいます。観客の80%は中国系の人たちであり、歌は聴い
ているものの実物を見たいという華僑で満席になったのです。
 あまりの盛況ぶりにシーザースパレスの社長やラスベガス市長
が見送りにきて、市の記念品を贈呈するという一幕もあり、翌日
の地元メディアはテレサ・テンを「チャイニーズスター」として
称え、大きく報道したのです。
 その年の12月には香港コロシアムでも15周年記念コンサー
トが開催されています。当日のチケットは2日間で売り切れると
いう盛況ぶりで、4回の予定だった公演を6回に増やし、約10
万人の人が集まったといわれます。もちろん香港の観客だけでな
く、大陸からはるばるやってきたお客が全体の30%を占めたと
いうのです。このときのショーは香港のコンサート記録をすべて
塗り替える記録的なコンサートになったのです。
 ここで留意するべきは、これほどの大歌手であったテレサ・テ
ンを当時の日本人は、ほとんど知らなかったという事実です。日
本ではせいぜい『空港』でヒットした一演歌歌手に過ぎなかった
からです。同じアジアの国のひとつである日本では、アジアの歌
手や映画スターについての知識はほとんどないのです。
 逆に日本以外のアジアの国では日本の歌手や映画スターはよく
知られていたにもかかわらずです。最近でこそ韓流ブームで韓国
のスターの情報が入ってきていますが、基本的に日本人はアジア
の国々には関心がないようにみえます。日本人がテレサ・テンと
いう大歌手の存在を意識したとき、単なる演歌歌手の新人としか
とらえられなかったということは、ある意味において現在の日本
とアジアの国々との関係を象徴しているといえます。
 テレサ・テンの日本での活動に視点を移すと、1981年にテ
レサ・テンと日本ポリドールとの契約は切れています。2年後に
テレサ・テンは新しく設立されたトーラスレコードに移籍してい
ます。この会社は、テレサ・テンを香港の歌庁で見出した日本ポ
リドールのプロデューサーである舟木稔氏が社長をしている会社
なのです。
 トーラスレコードの最初のアルバムが『旅人』です。このアル
バムは香港ポリドールが制作を引き受けているのですが、このプ
ロジェクトで、テレサ・テンは作曲家の三木たかしと中島みゆき
に会う機会を得たのです。かくして、テレサ・テンの新境地が開
かれていくことになります。
 とくにテレサ・テンにとって、作曲家三木たかしと、作詞家荒
木とよひさとの出会いは運命的であり、その後の数々の日本での
ヒット曲を生み出すきっかけになるのです。
 三木たかしは、テレサ・テンが長期間のプロモーションができ
ない歌手であるという点をふまえて、あくまで有線放送で宣伝す
るという方針を立てたのです。80年代前半は、有線が音楽を聴
くうえでの身近な存在だったからです。
 当時、ポールモーリアの演奏が大ヒットしており、OLや女子
大生が好んで聴いていたということを参考にして、三木は何度聴
いても飽きがこないBGMのような曲を作ろうと考えて、作曲し
たのです。三木たかしは次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  テレサの曲を書くに当っては、有線でよく聴かれるよう、耳
 に心地よい旋律を意識した。個性的な曲はとっつきやすいが、
 すぐに飽きる。たとえ最初の印象は薄くても、何度聴いても飽
 きない曲を目指した。もし、今のようにカラオケが一般的だっ
 たら、受けなかったかもしれない。その意味では、(テレサ・
 テンは)有線が力を持っていた最後の時代の人だと思う。
          ――2005.5.20付、読売新聞夕刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このようにして三木が作曲した曲に荒木とよひさは詞を書いて
「波止場にて」というタイトルをつけたのです。 しかし、この
曲は採用にならなかったので、その代わりに書いたのが「つぐな
い」だったのです。
 荒木とよひさによると、この曲は東北の港町に暮らすスナック
のママを描いたものだったのですが、プロデューサーの要望で都
会をイメージとしたものに書き換えられたのです。
 1984年1月21日に「つぐない」は発売されたのですが、
出足は最悪で、5週間でわずか50枚しか売れなかったというの
です。しかし、2月25日にテレサ・テンが来日してキャンペー
ンを開始すると、有線に動きが現れます。
 その後、3ヶ月ごとにテレサ・テンは来日し、キャンペーンを
繰り返したことにより、有線での順位はどんどん上がっていった
のです。そして「つぐない」は、100万枚近くを売り上げる大
ヒットになったのです。
 「つぐない」の歌詞は、「窓に西陽があたる部屋は・・」では
じまるのですが、不動産屋に「西陽の当る部屋を借りたい」とい
う注文をする女性が多く出るほど、この曲はヒットしたのです。
 テレサ・テンはこの「つぐない」によって、「日本有線大賞」
と「全日本有線放送グランプリ」を受賞しています。
 「つぐない」は「償還(チャンホウアン)」という名前で中国
語に翻訳されたのですが、テレサ・テンは中国語でこの曲を歌う
ときしばしば涙をこぼしていたといいます。この時期のテレサ・
テンは精神的にとても落ち込んでいたといわれます。


≪画像および関連情報≫
 ・ラスベガスのシーザースパレスとフランク・シナトラと一緒
  に紹介されているショーの看板

1615号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:52| Comment(0) | TrackBack(0) | テレサ・テン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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