2005年06月16日

昼は『老テン』、夜は『小テン』(EJ1614号)

 文化工作委員会の文化・宣伝担当の最高責任者である周応龍は
ロスに住むテレサ・テンを尋ねて、テレサ・テンと彼女の弟と一
緒に食事をしています。そのときにテレサ・テンの帰国の条件を
提案しています。
 その提案の内容は、偽造旅券事件のことは不問にする代わりに
次の2つのことをやってもらいたいということだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.愛国基金コンサートに出演
      2.軍の慰問コンサートを実施
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 テレサ・テンはこの提案を受け入れるのです。そして、帰国後
愛国基金コンサートに出演することを約束するのです。1980
年9月20日にテレサ・テンは、1年7ヶ月に及ぶ米国生活に終
止符を打って、米国を出発して日本に向かいます。固い決意を胸
に秘めて一歩を踏み出したのです。
 21日に日本に到着し、記者会見を開いて偽造旅券の件につい
て謝罪します。それから、9日間、テレサ・テンは日本での宣伝
のための仕事をして、台湾に戻ったのです。そして約束通り10
月10日、台北国父記念館での愛国基金コンサートに出演するの
です。そのとき集まった観客は実に3000人――台湾市民は熱
狂的にテレサ・テンを迎えたのです。
 それ以来、テレサ・テンは、精力的に軍への慰問コンサートを
行っています。それは国との約束でやむを得ずやっているという
ものではなく、自ら積極的に軍への慰問を続けたのです。兵士の
いるところ必ずテレサ・テンは出かけており、軍人からは「軍人
の永遠の恋人」といわれるようになります。
 軍はテレサ・テンが芸能人であることを考慮して謝礼を払おう
としたのですが、彼女は絶対に受け取らなかったといいます。そ
れに加えて、軍服を着て銃を持つテレサ・テンの姿、戦闘機に乗
る姿、掛け声をかけて軍人と一緒に走る姿がテレビ映像として流
され、いつしか台湾市民はテレサ・テンのことを「愛国芸人」と
呼ぶようになっていったのです。
 金門島の大陸に一番接近した場所にラジオ局があります。今で
は展望台などがあって観光地になっていますが、当時は軍人以外
は立ち入ることはできなかったのです。台湾政府はこのラジオ局
を利用して対大陸工作をやっていたのです。
 1981年12月にテレサ・テンは慰問コンサートのために、
このラジオ局にやってきています。金門島は十二の島に分かれて
いて、当時は20万人の兵士が駐留していたのです。テレサ・テ
ンはそういう兵士に対して「皆さん、お元気ですか。テレサ・テ
ンです」と呼びかけて、「何日君再来」を歌っています。
 これは、単に台湾の兵士に呼びかけるだけではなく、大陸にも
呼びかけているのです。1982年に中国の空軍中尉が飛行機で
台湾に亡命していますが、彼はその動機のひとつとして、テレサ
・テンのそういう放送を聴いて「テレサ・テンに会いたかった」
と述べているのです。
 テレサ・テンを使った台湾政府の宣伝作戦に対して中国政府は
警戒を強めます。テン・シャオピン(トウ小平)は、1983年
10月に講話を行い、精神汚染に反対するキャンペーンをはじめ
るのです。いわゆる資本主義文化の中にあるわれわれにとって有
害なるものを精神汚染として排斥することを明言したのです。
 1983年12月20日付の中国共産党の機関紙『解放日報』
のコラムでは「軽音楽および精神汚染の一掃について」と題して
次のように表現しています。
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  歌うのに適当でない歌を歌ったり、ときに香港や台湾の歌手
 の退廃的な調子を真似てみたり、またときには芸術ではない、
 いかがわしい曲調の嵐を受けることで、社会主義音楽界の軽音
 楽を資本主義社会における酒場音楽のようなものへと変化させ
 た。――有田芳生著『私の家は山の向こう』(文芸春秋)より
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 テン・シャオピンのはじめた「精神汚染キャンペーン」によっ
て、テレサ・テンの歌は北京では全面的に禁止され、テレサ・テ
ンのテープを持っているだけでも給与を減らされたり、財産の三
分の一を没収されることになったのです。
 しかし、いかにテン・シャオピンでもテレサ・テンの歌を根絶
やしにはできなかったのです。なぜなら、その時点でテレサ・テ
ンの歌声を収めたテープは大陸全土に2億個も出回っており、と
うてい根絶できるものではなかったのです。いくら禁止されても
テレサ・テンのテープをひそかに持ち続け、こっそりと口ずさむ
者が後を絶たなかったのです。
 「精神汚染批判キャンペーン」によって一時は鳴りをひそめた
テレサ・テンの歌声だったのですが、時間の経過とともに緩和さ
れていったのです。そして1984年になると、その行き過ぎを
懸念するテン・シャオピンによって幕が引かれたのです。
 この頃から中国社会で囁かれ出した次の言葉があります。
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 「小テン」の人気は「老テン」を圧倒する
 中国は昼は「老テン」が支配し、夜は「小テン」が支配する
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 いうまでもないことですが、「小テン」とはテレサ・テンのこ
とであり、「老テン」とはテン・シャオピン(トウ小平)を意味
ているのです。恐るべし、テレサ・テンの歌の力です。
 このようにテレサ・テンは、台湾や中国をはじめとする東アジ
アでは文字通りの超スーパースターだったのですが、日本におい
ては『空港』でレコード大賞を1回とったに過ぎない新人歌手で
あったに過ぎないのです。こういう点がテレサ・テンという歌手
について東アジアと日本では大きなギャップがあったといえると
思います。テレサ・テンが日本でブームになるのは、このあとの
話なのです。


≪画像および関連情報≫
 ・写真左「軍服姿で銃を持つテレサ・テン」
  写真右「金門島のラジオ局でのテレサ・テン」

1614号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:53| Comment(0) | TrackBack(0) | テレサ・テン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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