2005年06月15日

テレサ・テン帰国工作プロジェクト(EJ1613号)

 テレサ・テンは、台湾と中国大陸のはざまにおいて政治的に利
用され、翻弄された歌手であったといえます。しかし、これは本
人が望んでそうなったわけではなく、本人のあずかり知らぬとこ
ろでそういう仕組みが作られ、テレサ・テンはそこに嫌応なしに
組み込まれていったといえます。これからはしばらくそういう点
に焦点を当てて書いていきます。
 日本での拘束が解かれたテレサ・テンは米国に向かいます。そ
して、しばらくサンフランシスコで平穏な日々を過ごすのです。
テレサ・テンはこの時期、USC(南カルフォルニア大学)やU
CLA(カルフォルニア大学ロサンゼルス校)に通って勉強して
いるのです。この時期はテレサ・テンの人生にとって最も平穏な
ひとときであったといえます。
 その頃中国では、1976年9月9日に毛沢東が亡くなり、時
代が変わろうとしていたのです。10年間続いた文化大革命が終
結し、1977にはテン・シャオピン(トウ小平)が政権中枢に
返り咲いて、改革・開放政策が進められるようになったのです。
 1978年12月の第11期三中全会の方針決定により、海外
から文化の流入が始まったのです。これに伴い、台湾や香港の歌
手のカセット・テープが大陸に持ち込まれ、大量にダビングされ
て広く浸透していったのです。
 当然テレサ・テンの歌もまるで水が乾いた土地にしみ込むよう
に大陸に伝わっていったのです。そのときとくに親しまれた歌が
既に取り上げた「何日君再来」(ホー・リー・チン・ツァイ・ラ
イ)なのです。
 実は、私がEJのテーマとしてテレサ・テンを取り上げる時点
で、入手できていなかった重要な文献が一冊あるのです。それが
中薗英助氏の『何日君再来物語』(河出書房新社刊/1988年
――既出)だったのです。『何日君再来』の話から書き出そうと
決めていたのに肝心の本が入手できていなかったのです。
 しかし、その本は現在私の手元にあります。先週末に日本橋図
書館から借りることができたのです。現在読んでいますが、その
中に実に興味あることが書いてあるのです。
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  チョウ・シュアンのテープを手に入れるまでの間、いちばん
 聴いたのは、やはりテレサ・テンだろう。或る日、テレサ・テ
 ンが一風変わったうたい方をしているのに気がついた。
  最初に気がついたのは家人である。書斎に入ってきて、彼女
 は「何日君再来」に耳を傾けながら、まことに妙な顔をした。
 「ホーリイチュンツァイライというところをこの人はツァイラ
 イライ」と、ていねいにライを重ねるのね」(中略)
  「そうかね?」
  首をひねっているうちに、二番の歌詞のホーリイチュンツァ
 イライになったとき、たしかに再来を再来来と重ねてうたって
 いる。
  ――中薗英助著、『何日君再来物語』より 河出書房新社刊
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 これを読んで私は早速いくつかあるテレサ・テンのCDで「何
日君再来」を聴いてみたのです。その中でトーラスレコードから
出ている中国語の「何日君再来」の2番では、確かに「ツァイラ
イライ」とうたっているように聞こえます。しかし、他のCDで
はそうは聞こえないのです。
 おそらくテレサ・テンが意識的に「ツァイライライ」と歌った
録音テープがあることは確かであると思います。「再来」と「再
来来」は大きく違います。「再来」は単に「いつ帰ってくるの」
という問いかけであるのに対して、「再来来」は「君よ、帰って
きて欲しい」という強い熱意が入るからです。
 「何日君再来」をはじめとするテレサ・テンの歌が大陸で流行
しているのを知った時の台湾政府はテレサ・テンの写真とカセッ
トテープ、さらには化粧品や石鹸などを風船に付けて、気流に乗
せて金門島から大陸に向けて飛ばしたのです。金門島と大陸は約
1.6〜1.8キロという近さなのです。
 こういう一種の思想工作を通じて台湾政府は、「テレサ・テン
は政治的に使える」と考えたのです。ときの台湾の首相であるス
ウンユインシュエンは、テレサ・テンの帰国工作を部下に命じた
のです。台湾政府から見れば、テレサ・テンは偽造旅券で問題を
起こした問題人物です。その問題人物であるテレサ・テンに膝を
屈して台湾に帰国させる――国のためならそこまでやるという国
家プロジェクトがはじまったのです。
 国民党の文化工作委員会は中国テレビに依頼してテレサ・テン
と話をしてもらう工作をすると同時に、台湾にいるテレサ・テン
の父親を通じて、テレサ・テンに国家としていつくかの条件を提
示したのです。
 しかし、テレサ・テンは最初のうちは警戒してなかなか帰国し
ようとはしなかったのです。偽造旅券事件のさい、台湾のマスコ
ミが彼女のことを理解せず、「裏切り者」と書いたことに強く反
発していたからです。
 この時期テレサ・テンは、ニューヨークのリンカーンセンター
やロサンゼルスのミュージックセンター、カナダのトロントなど
でもコンサートを開いており、米国でも人気が上りつつあったの
です。テレサ・テンにとっては米国での生活は充実感のある快適
なものだったのです。
 そのとき、中国テレビからテレサ・テンに対してある話がきた
のです。テレサ・テンのロスでの生活を台湾で紹介したいという
ものだったのです。これは国民党の文化工作委員会が中国テレビ
に依頼したことを受けてのものだったのですが、テレサ・テンは
これを受け入れています。収録のためロスにやってきたテレビの
プロデューサーは「心配はいらない」と彼女に伝えています。
 さらに、国民党の文化工作委員会の主任の地位にあった周応龍
がわざわざロスまで足を運び、テレサ・テンと話し合い、帰国の
条件を直接本人に伝えています。


≪画像および関連情報≫
 ・中薗英助著『何日君再来物語/いつのひきみかえる』

1613号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:55| Comment(0) | TrackBack(0) | テレサ・テン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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