ン・マイクロシステムズ社の株価が3.25ドル(時価総額にし
て約6億ドル)も下落したのです。1996年5月といえばJA
VAを発表したサン・ワールド年次会議の1年後です。会場にい
っぱいに詰めかけたJAVA愛好者を迎えて開会式をやっている
まさにそのときに株が下落したのです。
ウォール・ストリート・ジャーナル誌は、このサンの株価下落
をサンのJAVAチームからポレーゼーらのチームが離脱したこ
とによるものと分析したのです。
ウォール・ストリート・ジャーナル誌は、ポレーゼーらのチー
ム離脱を離脱直後に報じているのですが、そのときは何の反響も
なかったのです。それはマリンバが1996年1月の会社創設以
来一度も公に出ることはなかったからであると思われるのです。
マリンバのポレーゼーCEOは、ジャバ・ワンの開始に合わせ
て会場近くのホテルに部屋を取り、そこで極秘を条件として投資
家やマスコミや企業を対象として、製品のアナウンスと製品テス
トの了解を取ったのは昨日お話しした通りです。マリンバの公の
デビューは会社創設以来これが始めてであり、これによってはじ
めて優秀な技術者の離脱を知った投資家が少なくないのです。
ポレーゼーは、マリンバの資金源としてKP――クライナー・
パーキンスを選んで交渉し、第1回の資金調達を受けています。
KPとは、あのネットスケープ社を支援したジョン・ドーアの率
いるベンチャー・キャピタルです。
ジョン・ドーアは、マリンバの技術力もさることながら、キム
・ポレーゼーというCEOの能力を高く評価していたのです。ジ
ョン・ドーアのポレーゼー評は次の通りです。
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技術的にはすぐれているのに、マーケティングでうまく狙いを
定められずに失敗した企業を見てきた。キムは狙いをうまく定
めているだけでなく、WWWの行く先を見越したうえでそうし
ている。 ――ジョン・ドーア
――ロバート・リード著/山崎洋一訳
『インターネット激動の1000日』上巻 日経BP社刊
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1996年10月7日――カスタネットの公開日です。この日
までマリンバのスタッフはカスタネットの開発で地獄の日々が続
いたといいます。KPの支援を受けたマリンバは、やっと人が雇
えるようになっていたのです。
公開日である10月17日にはマリンバの製品のことを書いて
よいというマリンバとマスコミとの約束によって、マスコミ側も
かなり準備していたようです。この頃にはマリンバのことは相当
大きな話題となっていたのです。
リリースの当日の朝です。ポレーゼーは早朝に地元のラジオ局
の電話取材を受けると、すぐCNNスタジオに向かい、そこで生
放送をこなしています。それからシリコン・バレーの大手大衆誌
「レッド・ヘリング誌」の写真撮影をやっています。そして、こ
こで撮影された写真は同誌の1996年12月号の表紙に載って
いるのです。
それから、ウォール・ストリート・ジャーナル誌とニューヨー
ク・タイムス紙にマリンバとカスタネットの詳しい記事が掲載さ
れたのです。サンノゼ・マーキュリー・ニュース紙もビジネス欄
のトップ記事でマリンバを大きく扱ったのです。
これによって、サンから独立したJAVAチームであるマリン
バの名前は一躍有名になったのです。リリースから20日間で、
カスタネットのチューナーは5万本がダウンロードされ、好調な
滑り出しをしたのです。この数は、リアルオーディオ・プレーヤ
やネットスケープ・ナビゲータの初期のダウンロードの数と変わ
らない数字なのです。
これでJAVAとマリンバの話は終わることにします。マリン
バが順調な滑り出しをしてから約10年が経過しています。そし
て現在、マリンバがどうなっているのか、残念ながらわからなく
なっています。
ネットで「マリンバ」と検索しても、「カスタネット」で検索
しても出てくるのは楽器の説明ばかり。「ボレーゼー」で検索し
ても、ロバート・リードの本とEJブログの記事が出てくるだけ
です。それほど、情報が少ないということです。
既にマイクロソフトOSの全盛の時代も盛りを過ぎ、グーグル
がITをリードする情勢になっています。そういう激動の10年
の中で消えていったのでしょうか。しかし、長くITと付きあっ
ている人間にとって、キム・ポレーゼーというすぐれた女性の経
営者によるマリンバの名前は忘れられないもののひとつです。
ロバート・リードは、『インターネット激動の1000日』の
マリンバについての記述の最後に次のように書いています。ちな
みに本書の刊行は1997年5月です。
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ポレーゼーは、ダンスともちろんだが仕事以外は、さまざまな
趣味や関心事をほとんど中断せざるを得なくなっている。以前
のように毎日の生活のなかでバランスをとることをあきらめ、
数週間や数ヶ月のうちではなく、数年のうちに時間を追ってバ
ランスをとっていこうと考えている。そのために、「さまざま
な人生」を送りたいという。シリコン・バレーでジャバの仕事
をする人生は、そのなかのひとつに過ぎない。この人生が終わ
ることがあるとすれば、かならずつぎのなにかをはじめるだろ
う。そのときは彼女はヨーロッパにいるかもしれない。
――ロバート・リードの前掲書より
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57回にわたって書いてきた「日本におけるインターネットの
歴史」は今回をもって終了させていただきこます。長い間ご愛読
を賜り、厚く御礼申し上げます。明日からは、新しいテーマを取
り上げます。 ―― [日本のインターネット/57/最終回]
≪画像および関連情報≫
・「日本におけるインターネットの歴史」について
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今回のテーマは「日本におけるインターネットの歴史」と題
してはじめましたが、資料が少なく、あまり日本について書
くことができず、整理上EJブログのタイトルは「インター
ネットの歴史/2」とさせていただきます。「インターネッ
トの歴史/1」と合わせて読んでいただければ幸いです。
http://electronic-journal.seesaa.net/
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