2016年01月18日

●「二重天皇/表天皇と裏天皇の存在」(EJ第4197号)

 事実としてはほとんど間違いのないことでも、それを公表する
と社会的影響が大きい場合、それをあえて黙殺し、真実を明かそ
うとする勢力に陰謀論のレッテルを貼ることが多いのです。天皇
家の南朝北朝論争もそのひとつと思われます。
 明治天皇は明治維新と同時に入れ替わっている──これだけで
も大変衝撃的ですが、裏天皇表天皇説という説まであるのです。
EJがこれを知ったのは、「日本の支配構造」というブログです
が、その根拠になるのは次の書籍です。
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 落合莞爾著『明治維新の極秘計画「堀川政略」とウラ天皇』
                        成甲書房
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 今上天皇をすり替える──こんなことが簡単にできるはずがあ
りません。しかし、明治維新は、いわゆる薩長が起こした一種の
クーデター計画ですから、何が起きても不思議ではないといえま
す。まして、薩摩藩の西郷隆盛は「南朝の天皇をいただき、国の
仕組みを変える」ことが目的であり、そのまま北朝の天皇を受け
入れることはできなかったのです。
 そこで朝廷側──孝明天皇、久邇宮朝彦親王、岩倉具視、徳川
慶喜などの一派が、京都に堀川御所という裏の御所をつくるとい
う「堀川政略」というシナリオを書き、明治政府側はそれを受け
入れたのです。
 つまりこういうことです。明治政府は南朝の血を継ぐといわれ
る大室寅之助が睦仁天皇に代わり明治天皇に就くが、孝明天皇は
京都に堀川御所をつくり、裏天皇として君臨するというシナリオ
です。したがって、孝明天皇は毒殺されていないし、明治維新以
後も北朝を継ぐ裏天皇として君臨し続けたというわけです。
 このとき、孝明天皇側についていたのは、徳川慶喜などの堀川
一派、堀川辰吉朗、本願寺大谷派、大徳寺臨済宗、聖護院、丹波
大江山系霊媒衆の大本教などです。
 ここで疑問なのは、孝明天皇はこの案をどうして受け入れたか
ということです。なぜなら、自分は表向き、一切姿を消すことに
なるからです。しかし、この堀川政略は当時の天皇のポジション
を考えると、朝廷側にも多くのメリットがあることは事実です。
 孝明天皇は、政治意識の強い天皇で、攘夷論、すなわち、外国
勢力は排斥するという考え方です。薩長は「尊皇攘夷論」ですか
ら、本来主張は一致するはずです。ところが孝明天皇は、公武合
体論者なのです。朝廷(公)と幕府(武──徳川幕府)が力を合
わせて、外国との折衝に当たるべきであるとの考え方の持ち主で
す。何も天皇が幕府にとって代わって政権を担うというつもりは
なかったのです。
 当時徳川幕府の権威は弱くなってきており、朝廷の権威は向上
していました。かつては天皇が幕府の顔を窺いながら朝廷として
の主張を述べることが多かったのですが、幕末には幕府の方が天
皇の顔色を窺うようになってきています。つまり、孝明天皇の時
代は、天皇と幕府の力関係が逆転していたといえます。これが徳
川慶喜の大政奉還に結びつくことになります。
 しかし、薩長──とくに長州藩の倒幕派は吉田松陰の思想を受
け継ぐ者が多く、倒幕後の政権は孝明天皇が想像もできない日本
国の運営を考えていました。そのため、薩長は孝明天皇が守ろう
とする幕府を倒す倒幕に傾いたのです。
 コトがここまで進むと、あくまで薩長に抵抗し続けると、天皇
の身が危なくなると考えた天皇の側近は多くいたと思われます。
そこで練られたのが「堀川政略」というわけです。
 この間の事情について落合莞爾氏は次のように述べています。
当時の西欧列強からの厳しい開国要求も堀川政略が練られた背景
になっています。
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 幕末になり、西欧諸国からの厳しい要求に遭って開国の已む無
きことを悟られた孝明天皇が、国体を保持しつつ政体天皇を建て
以って幕藩体制から公武合体に移行することと、開国に伴う国内
犠牲、すなわち外国の介入により臣民同士が相撃つ悲劇を最小に
止めることを第一義にしたものと推測されます。(中略)
 さらに、開国後の世界王室連合への加盟を前提にして、国体の
保全と開国とを両立させるための方策を青蓮院宮(朝彦親王)、
侍従岩倉具視に諮り、岩倉が未来構想に立って献策した「堀川政
略」を嘉納したものと考えられます。(中略)
 その骨子は皇室を表裏二面に分けることで、そのために孝明天
皇が崩御を装い、皇太子睦仁親王と倶(とも)に堀川御所に隠れ
以後は世に隠れた京都皇統として、国体天皇本来の機能である国
家シャーマンとして国家安泰を祈ります。   ──落合莞爾著
  『明治維新の極秘計画「堀川政略」とウラ天皇』/成甲書房
      「日本の支配構造サイト」/http://bit.ly/1OSn26a
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 表天皇と裏天皇──まさに陰謀論的な話ですが、これを裏付け
るものは多くあります。その証拠に明治維新から太平洋戦争が終
結するための80年間は、孝明天皇の研究は禁止され、「禁断の
研究」になっていたのです。その「孝明天皇については研究して
はならない」という規制自体が、孝明天皇には隠された秘密があ
ることの証明になると思います。
 興味があるのは、太平洋戦争突入直前は、どちらの天皇が力を
持っていたかです。裏天皇には軍部がついていたといわれている
ので裏天皇が強かったと思われますが、そうであるとすると、戦
争に強く反対していた昭和天皇の意思がなぜ通らなかったのかな
ど、今まで解けなかった多くの謎が解明できます。
 孝明天皇についての研究のタブーが事実外されたのは昭和47
年(1967年)に孝明天皇の公式記録『孝明天皇記』が公刊さ
れたことがきっかけです。しかし、あくまで孝明天皇が、慶応2
年に崩御されたことが前提となっています。
            ──[現代は陰謀論の時代/010]

≪画像および関連情報≫
 ●孝明天皇は本当に毒殺されたのか
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   孝明天皇の死亡は、慶応2年12月25日(1867年1
  月30日)である。公武合体派の孝明天皇の突然死により、
  岩倉具視、大久保利通らの王政復古派は勢いづき、今日では
  偽文書とされる「倒幕の密勅」を、新天皇の名で薩摩・長州
  に対して発した。以降、事態は朝廷側対幕府側との全面対決
  へと急展開してゆく。
   孝明天皇の突然死については、早くから毒殺だと語られて
  きた。しかしこれに関して、明治政府側から書かれた研究書
  や小説は一切触れることはない。「毒殺説もある」と記して
  あるものは、むしろ良心的な部類である。
   孝明天皇の毒殺については、医学的には決着がついたこと
  である。孝明天皇の主治医、伊良子織部正光順の当時の日記
  とメモが光順の曾孫にあたる医師、伊良子光孝氏によって発
  見され、その中身が昭和50年から52年にかけ、「滋賀県
  医師会報」に発表された。『天脈拝診日記』と題された、日
  記とメモの解読報告である。光孝氏は、記録に残る孝明天皇
  の容態から、最初は疱瘡(痘瘡)、これから回復しかけたと
  きの容態の急変は急性薬物中毒によるものと判断した。さら
  に光孝氏は、痘瘡自体も人為的に感染させられたものと診て
  こう記したという。「この時点で暗殺を図る何者かが、『痘
  毒失敗』を知って、あくまで痘瘡によるご病死とするために
  痘瘡の全快前を狙ってさらに、今度は絶対心配のない猛毒を
  混入した、という推理がなりたつ」。
                   http://bit.ly/1OlNhjZ
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孝明天皇.jpg
孝明天皇
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 現代は陰謀論の時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
裏天皇は京都に行った後、睦仁が裏天皇になりその代理機関が玄洋社(頭山満)になり、睦仁の死後は堀川達吉ろうが裏天皇になったらしいです

太平洋戦争時の裏天皇が堀川辰吉郎らしいです。
彼の部下が児玉誉士夫、笹川、岸などの満州人脈だったらしいです

このブログで検索するといろいろ詳細な記事がでてきますよ
https://shanti-phula.net/ja/social/blog/?p=80258
Posted by あ at 2016年02月18日 10:03
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