2016年01月15日

●「明治天皇すり替え説の真偽を探る」(EJ第4196号)

 「ヤフー!ジャパン知恵袋」に次の質問が出ていました。その
ものズバリの質問なので、ご紹介します。
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 今の天皇は北朝ですか、南朝ですか?
 近世以来、南北朝のいずれが正統かをめぐって南北朝正閏論が
行われてきた。明治時代には皇室は南朝が正統とされ、文部省は
国定教科書で「吉野朝時代」の用語を使うよう命じた。
 東京大学史料編纂所は『大日本史料』で「南北朝時代」を引き
続き使用したが、1937年(昭和12年)、皇国史観で知られ
る平泉澄や宮内省の芝葛盛らの批判を受けた。所内の協議の結果
辻善之助所長の判断で、南北朝時代の第六編は編纂は続けるが、
出版は中断することになった。いったいどっちなのでしょうか?
                   http://bit.ly/1mTQdM4
─────────────────────────────
 回答については実際に見ていただきたいのですが、「北朝」と
いう回答が多いものの、「南朝」という回答もあります。どちら
ともつかない回答もあります。すっきりしないのです。
 EJの調査によると、南朝は4代で終わっています。それは次
の4代です。
─────────────────────────────
          96代:後醍醐天皇
          97代:後村上天皇
          98代: 長慶天皇
          99代:後亀山天皇
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 次の100代は北朝の後小松天皇です。後亀山天皇から三種の
神器が返却され、この時点で北朝に戻っています。以後はずっと
北朝の天皇が続いているということになります。したがって、現
在の天皇家は北朝である──このような理屈になるのです。
 しかし、そうであるとすると、昨日のEJで述べた楠木正成の
銅像が皇居外苑にあることの説明がつかなくなります。さらに、
「ヤフー!ジャパン知恵袋」の質問にある「明治時代には皇室は
南朝が正統とされ、文部省は国定教科書で『吉野朝時代』の用語
を使うよう命じた」は事実であり、これとも矛盾します。
 そこでひとつの仮説を立ててみます。その仮説とは、明治維新
になって北朝系の天皇は終り、以降は南朝系の天皇であるという
ものです。このように考えると矛盾はなくなります。
 明治維新の前の天皇は孝明天皇です。孝明天皇はもちろん北朝
です。孝明天皇は、あくまで公武合体の維持を望んであり、尊攘
派公家が長州勢力と結託して様々な工作を計っていることに不快
感を示していたのです。そのため、長州征伐の勅命を出したり、
京都守護職に腹心の松平容保を任命し、長州勢力を弾圧したので
長州勢から強い反発を買っていたのです。
 その孝明天皇は、慶応2年12月25日に在位21年、36歳
で崩御するのです。死因は天然痘と診断されていますが、天皇は
とくに長州勢力には嫌われていたので、他殺説もいろいろ取り沙
汰されています。
 さて、天皇が崩御すれば、その男子の継承者が皇位を継承する
ことになります。孝明天皇の場合は第2皇子の睦仁親王が122
代天皇として皇位を継承しています。慶応2年のことです。これ
が明治天皇ということになります。
 しかし、ここから先が闇であり、陰謀論でないと語れない世界
に入っていきます。この122代の睦仁天皇は、慶応2年(18
67年)からの天皇ですが、明治維新によって、1868年10
月23日から元号が「明治」となったので、明治天皇と呼ばれる
ようになります。このとき、天皇がすり替わっているというのが
明治天皇すり替え説なのです。
 明治維新の立役者の一人である伊藤博文は、かねてから南朝の
後醍醐天皇の血を継ぐ皇室の継承者を「隠し玉」として持ってい
るといっていたのです。もともと彼らの目的が「南朝の天皇を建
て、異人を追い払い、独立を保つ」でしたから、彼らがそういう
隠し玉を持っていたとしても不思議ではないのです。
 その隠し玉は、後醍醐天皇の第一皇子の息子の光良親王の子孫
に当たる地家氏を継ぐ地家寅之助という人物で、後に周防の国の
田布施にある大室家に養子に入り、大室寅之助と名乗るようにな
ります。ここにまたしても田布施が出てきます。
 つまり、こういうことです。睦仁天皇は間違いなく122代の
北朝の天皇として即位しているのですが、明治維新のさい、大室
寅之助と入れ替わり、明治天皇になっているというのです。そん
なことあるはずがないと誰でも思いますが、一概に否定できない
ことがたくさんあるのです。添付ファイルを見ていただきたいの
です。左の人物が睦仁親王であり、右が明治天皇(大室寅之助)
です。左の人物は何か台に腰かけていますが、かなり小柄であり
弱々しく見えます。これに比べて明治天皇は勇壮で体が大きく、
乗馬、相撲などのスポーツが得意であり、大柄です。
 性格も対照的なのです。睦仁親王は女のように華奢で、病気が
ちであり、字は上手ではないのに対し、明治天皇は男性的で、字
は達筆であるなど、その違いは歴然としています。写真を見る限
り、2人は明らかに別人です。
 ちなみに当時「南朝の隠し玉」というのは当時は珍しくなく、
南朝復興論を主張する有力な藩はそれぞれ隠し玉を持っていたの
です。たとえば、熊沢天皇(水戸藩)、三浦天皇(井伊藩)、出
口天皇(紀州藩)、小野寺天皇(仙台藩)などです。
 にわかには信じられない話ですが、明治天皇すり替え説は、単
行本もあり、そういう本を読むと、かなりの説得力があり、それ
ほどいい加減なものとはいえないのです。玉石混交ですが、ネッ
ト上にはこの手の情報は溢れています。
 このすり替え説のほかに、もっと驚くべき説があります。天皇
には表天皇と裏天皇があるというのです。この説については来週
取り上げます。     ──[現代は陰謀論の時代/009]

≪画像および関連情報≫
 ●明治天皇すり替え/龍馬暗殺の真相
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   幕末はご存知の通り、南朝を正統とする水戸学の尊皇攘夷
  から始まっています。この思想を持つ人たちにとっては、南
  朝の方が正統となります。が、現実には室町時代に南朝の系
  統は消滅し、以来北朝が正統となり、孝明天皇・睦仁親王も
  もちろん北朝です。
   話は変わって、幕末、長州の田布施という所に、大室寅之
  祐という少年がいました。この人は南朝の後醍醐天皇の玄孫
  光良親王の子孫です。つまり、南朝の子孫となります。結論
  から言うと、睦仁親王とこの大室寅之祐はすり替えられまし
  た。もちろん、薩長・岩倉の手によってです。
   維新回天を成就するには、自分たちの意見を取り入れてく
  れる天皇が必要でした。そこで吉田松陰の命を受けた伊藤俊
  輔が守役をしていた、大室寅之祐を替え玉としたのです。
   吉田松陰は水戸学に啓発され、偽王朝の孝明天皇を排除し
  て正統な血筋の大室寅之祐を皇位につけ、南朝の皇統を復活
  させようと考えていたのでした。
   ここで、疑問が出てくると思います。はたして天皇となる
  人のすり替えが可能なのか?以下は、その証拠と言われてい
  るものです。          http://amba.to/1RkQTGz
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同一人のはずの睦仁親王と明治天皇.jpg
同一人のはずの睦仁親王と明治天皇
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 現代は陰謀論の時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
山中伸弥教授のips細胞で人間の耳介の再生実験が
成功しております・・・・・・なぜ 耳・・・
成人に達した耳介わ基本、一生変化しませんし
老化現象もない為、警察の鑑定にも使われます
 お話を戻しますが、後真影の耳介非常に立派で
大きくとても張りが有る様にお見受け致します
骨太で、相当な筋肉質量が無ければ、このような
大きさにわ、成れません
勿論、遺伝的要素も、殆んど受け継がれますので
代々同じような耳介でしたでしょう
身長も177cm位に推測されます
神代の時代より代々受け継がれて雅な生活と違い
幼い頃より相当な運動量(力仕事)をこなさねば
形成できない肢体に見受けられます
侍従を相撲でよく投げ飛ばしたと言う逸話を聞きますが ・・・・・・ 本当でしょう
当時とすれば希に見る 大男ですので ?
それと左利きです
右利きでしたらこのような写真のポーズのときわ
手の上下と足の前後ろが逆になりますので
お解りですね 鷹が鳶を生む事わ ありません
Posted by 中務 慶一郎 at 2016年01月18日 23:54
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