見れば、そういえばそういう銅像があったなと気付く人は多いと
思います。しかし、若い人は誰の銅像であるかほとんどの人は知
らないと思われます。これに比べると、上野公園の西郷隆盛の銅
像ははるかに有名であり、若い人でもそれが西郷隆盛の銅像であ
ることを知っています。
皇居外苑の銅像は楠木正成の銅像なのです。楠木正成とは何者
でしょうか。なぜ、皇居前の特等席ともいうべき場所に、皇居に
何が起きてもすぐ駆けつけられるように、馬に乗って馬首を皇居
の方に向けているのです。
この銅像を見る限り、楠木正成という人物は「天皇家の忠臣」
という扱いです。しかし、楠木正成は「大悪党」とも呼ばれてい
るのです。忠臣と大悪党──この極端な評価のウラには何がある
のでしょうか。
それには、時代を鎌倉幕府の崩壊時点まで遡ってみる必要があ
ります。鎌倉幕府は、源頼朝を旗頭として、北条時政、北条義時
ら坂東武士が鎌倉に創設した武家政権(幕府)です。
しかし、頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は
断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配
者となります。ところが、執権北条守時の妹赤橋登子の婿である
足利尊氏が突如裏切り、六波羅探題を攻め落とすのですが、これ
がきっかけになって短期間で鎌倉幕府は滅亡してしまうのです。
これによって、天皇家は武家に取られていた政権を公家に取り戻
すことができたのです。
ところが、その矢先、親政を行うべき長男である後二条天皇が
18歳の若さで病死してしまいます。後二条天皇の息子である邦
良親王が幼少なので、次男の後醍醐天皇が即位します。親王が成
人するまでの間、親政を執るという約束です。
しかし、後醍醐天皇は邦良親王が成人しても天皇の座を譲らず
天皇家はお家騒動に突入してしまうのです。そのゴタゴタの結果
後醍醐天皇は京都を追われます。しかし、後醍醐天皇は、天皇の
証である「三種の神器」を持って、奈良の吉野でわれこそは正当
な天皇家であると宣言します。これが「南朝」のはじまりです。
この吉野朝初代の後醍醐天皇についている武将が楠木正成なので
す。このことは、それまでの天皇家は「北朝」であることを意味
しています。
そのため、楠木正成は、後醍醐天皇と一緒に鎌倉幕府を倒す片
棒を担いだのではないかということで、とくに北条家──鎌倉幕
府側から「大悪党」と呼ばれるようになるのです。北条家から見
れば、敵方の武将は悪党であり、楠木正成がそのように思われて
も仕方がないでしょう。
しかし、南朝は長続きせず、4代で途絶えてしまいます。それ
は、室町幕府を興すべく足利尊氏が立ち上がったからです。楠木
正成は攻めてくる足利軍を何度も撃退しますが、後醍醐天皇の親
政の評判はよくなかったのです。それに当の楠木正成自身も後醍
醐天皇の政治にも問題があると考えるようになります。そのとき
の楠木正成の心境について、ウィキペディアは次のように記述し
ています。
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この頃正成は、社会の混乱の全ては後醍醐天皇の政治にあるこ
と、力を持った武士階級を統制して社会を静めるにはもう公家政
治では無理であること、そして武士を統制できる武家政治の中心
となれるのは足利尊氏以外にいないことなどを考えていたようで
ある。 ──ウィキペディア http://bit.ly/1RX4aSP
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楠木正成は、後醍醐天皇に尊氏と和睦するよう進言したのです
が、容認されなかったので、次善の策として京都から朝廷を一時
退避して、足利軍を京都で迎え撃つ必勝の策を提言します。
しかし、後醍醐天皇は聞く耳を持たず、京都を出て戦うよう出
陣を命ぜられ、神戸の湊川で足利軍と戦ったのですが、破れ、弟
の正季と共に自害して果てるのです。
南朝の終了によって、三種の神器は北朝に返還されます。以後
天皇家はその系統を引き継ぎ現在まで続いているので、現在の天
皇家は北朝ということになります。それなら、北朝の天皇家の居
城である皇居の前に、南朝の守護神ともいうべき楠木正成の像が
なぜあるのでしょうか。
この謎を解くには時代を明治維新の前に戻す必要があります。
ところで、明治維新はなぜ実現したのでしょうか。
それは、薩長連合が成立したことにあります。薩長連合が成立
したのは、坂本龍馬の働きが有名ですが、当時薩摩藩と長州藩が
基本的にお互いの利害が一致したからです。具体的にいうと「日
本という国を外国の脅威から守るためには、幕府を倒して新しい
天皇をいただき、新しい仕組みをつくるしかない」という「水戸
学的尊王論」──当時の吉田松陰の考え方に薩摩と長州の意見が
合致したからです。
この新しい天皇が「南朝の天皇」なのです。薩摩藩のリーダー
である西郷隆盛の先祖は、南朝の大忠臣である肥後国の菊池家の
家臣であり、江戸時代の元禄年間に島津家々臣になっていること
から、西郷自身は南朝の御正系を立てて、王政復古するのは願っ
てもないことだったのです。西郷の別名である「西郷南洲」はそ
れを表しています。
それに長州の桂小五郎は「長州では後醍醐天皇の子孫を代々か
くまっている」ことを西郷に示唆していたのです。これによって
西郷としては、南朝復活ができると考えたものと思われます。こ
のことがなければ、いかに坂本龍馬が頑張ったとしても、薩長同
盟は成就できなかったと考えられます。
ここで問題になるのは、その「南朝の子孫」とは誰であり、そ
の子孫がその後どうなったかです。このことを解明すれば、皇居
外苑になぜ楠木正成像があるのかの謎が解けると思います。
──[現代は陰謀論の時代/008]
≪画像および関連情報≫
●なぜ薩摩藩と長州藩が手を結んだのか/早稲男氏
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当時犬猿の仲にあった薩摩藩と長州藩の間を、坂本龍馬が
とりもって同盟を結ばせたという話はあまりにも有名ですが
なぜ薩摩と長州は手をとりあったのでしょうか。
お互いの利害が一致したからというのが一番の理由です。
当時薩摩藩は琉球藩との密貿易やイギリスとのつながり(薩
英戦争後に仲良くなった)によって財政が潤っており、力が
弱まっていた幕府からするとその影響力は脅威そのものでし
た。そこで幕府は、長州討伐という名目で薩摩藩に長州藩を
攻めるよう仕向けたのです。
薩摩藩からすると、ここで長州藩と戦争を行えば、たくさ
んの犠牲やお金がかかって国力が衰えるのは目に見えていま
す。さらに当時の幕府には、雄藩否定論といって、力のある
藩を目の敵にする風潮があったので、長州討伐の後に薩摩藩
が標的とされるかもしれない、といった心配もありました。
長州藩と戦争はしたくないけれども、幕府の命令に背いて長
州藩との戦争を避ければ、幕府の裏切り者になってしまいま
す。薩摩藩の中には「日本という国を外国の脅威から守るた
めには、幕府を倒して新しい仕組みをつくるしかない」と倒
幕を進める動きもありましたが、いくら国力があったとはい
え、薩摩藩だけで倒幕を進めるような感じでもない。薩摩藩
はそのような状況下にありました。 http://bit.ly/1ULkM0H
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皇居外苑の楠木正成像