2016年01月14日

●「皇居外苑に楠木正成像がある理由」(EJ第4195号)

 皇居外苑に、ある銅像が建っています。添付ファイルの画像を
見れば、そういえばそういう銅像があったなと気付く人は多いと
思います。しかし、若い人は誰の銅像であるかほとんどの人は知
らないと思われます。これに比べると、上野公園の西郷隆盛の銅
像ははるかに有名であり、若い人でもそれが西郷隆盛の銅像であ
ることを知っています。
 皇居外苑の銅像は楠木正成の銅像なのです。楠木正成とは何者
でしょうか。なぜ、皇居前の特等席ともいうべき場所に、皇居に
何が起きてもすぐ駆けつけられるように、馬に乗って馬首を皇居
の方に向けているのです。
 この銅像を見る限り、楠木正成という人物は「天皇家の忠臣」
という扱いです。しかし、楠木正成は「大悪党」とも呼ばれてい
るのです。忠臣と大悪党──この極端な評価のウラには何がある
のでしょうか。
 それには、時代を鎌倉幕府の崩壊時点まで遡ってみる必要があ
ります。鎌倉幕府は、源頼朝を旗頭として、北条時政、北条義時
ら坂東武士が鎌倉に創設した武家政権(幕府)です。
 しかし、頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は
断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配
者となります。ところが、執権北条守時の妹赤橋登子の婿である
足利尊氏が突如裏切り、六波羅探題を攻め落とすのですが、これ
がきっかけになって短期間で鎌倉幕府は滅亡してしまうのです。
これによって、天皇家は武家に取られていた政権を公家に取り戻
すことができたのです。
 ところが、その矢先、親政を行うべき長男である後二条天皇が
18歳の若さで病死してしまいます。後二条天皇の息子である邦
良親王が幼少なので、次男の後醍醐天皇が即位します。親王が成
人するまでの間、親政を執るという約束です。
 しかし、後醍醐天皇は邦良親王が成人しても天皇の座を譲らず
天皇家はお家騒動に突入してしまうのです。そのゴタゴタの結果
後醍醐天皇は京都を追われます。しかし、後醍醐天皇は、天皇の
証である「三種の神器」を持って、奈良の吉野でわれこそは正当
な天皇家であると宣言します。これが「南朝」のはじまりです。
この吉野朝初代の後醍醐天皇についている武将が楠木正成なので
す。このことは、それまでの天皇家は「北朝」であることを意味
しています。
 そのため、楠木正成は、後醍醐天皇と一緒に鎌倉幕府を倒す片
棒を担いだのではないかということで、とくに北条家──鎌倉幕
府側から「大悪党」と呼ばれるようになるのです。北条家から見
れば、敵方の武将は悪党であり、楠木正成がそのように思われて
も仕方がないでしょう。
 しかし、南朝は長続きせず、4代で途絶えてしまいます。それ
は、室町幕府を興すべく足利尊氏が立ち上がったからです。楠木
正成は攻めてくる足利軍を何度も撃退しますが、後醍醐天皇の親
政の評判はよくなかったのです。それに当の楠木正成自身も後醍
醐天皇の政治にも問題があると考えるようになります。そのとき
の楠木正成の心境について、ウィキペディアは次のように記述し
ています。
─────────────────────────────
 この頃正成は、社会の混乱の全ては後醍醐天皇の政治にあるこ
と、力を持った武士階級を統制して社会を静めるにはもう公家政
治では無理であること、そして武士を統制できる武家政治の中心
となれるのは足利尊氏以外にいないことなどを考えていたようで
ある。      ──ウィキペディア http://bit.ly/1RX4aSP
─────────────────────────────
 楠木正成は、後醍醐天皇に尊氏と和睦するよう進言したのです
が、容認されなかったので、次善の策として京都から朝廷を一時
退避して、足利軍を京都で迎え撃つ必勝の策を提言します。
 しかし、後醍醐天皇は聞く耳を持たず、京都を出て戦うよう出
陣を命ぜられ、神戸の湊川で足利軍と戦ったのですが、破れ、弟
の正季と共に自害して果てるのです。
 南朝の終了によって、三種の神器は北朝に返還されます。以後
天皇家はその系統を引き継ぎ現在まで続いているので、現在の天
皇家は北朝ということになります。それなら、北朝の天皇家の居
城である皇居の前に、南朝の守護神ともいうべき楠木正成の像が
なぜあるのでしょうか。
 この謎を解くには時代を明治維新の前に戻す必要があります。
ところで、明治維新はなぜ実現したのでしょうか。
 それは、薩長連合が成立したことにあります。薩長連合が成立
したのは、坂本龍馬の働きが有名ですが、当時薩摩藩と長州藩が
基本的にお互いの利害が一致したからです。具体的にいうと「日
本という国を外国の脅威から守るためには、幕府を倒して新しい
天皇をいただき、新しい仕組みをつくるしかない」という「水戸
学的尊王論」──当時の吉田松陰の考え方に薩摩と長州の意見が
合致したからです。
 この新しい天皇が「南朝の天皇」なのです。薩摩藩のリーダー
である西郷隆盛の先祖は、南朝の大忠臣である肥後国の菊池家の
家臣であり、江戸時代の元禄年間に島津家々臣になっていること
から、西郷自身は南朝の御正系を立てて、王政復古するのは願っ
てもないことだったのです。西郷の別名である「西郷南洲」はそ
れを表しています。
 それに長州の桂小五郎は「長州では後醍醐天皇の子孫を代々か
くまっている」ことを西郷に示唆していたのです。これによって
西郷としては、南朝復活ができると考えたものと思われます。こ
のことがなければ、いかに坂本龍馬が頑張ったとしても、薩長同
盟は成就できなかったと考えられます。
 ここで問題になるのは、その「南朝の子孫」とは誰であり、そ
の子孫がその後どうなったかです。このことを解明すれば、皇居
外苑になぜ楠木正成像があるのかの謎が解けると思います。
            ──[現代は陰謀論の時代/008]

≪画像および関連情報≫
 ●なぜ薩摩藩と長州藩が手を結んだのか/早稲男氏
  ───────────────────────────
   当時犬猿の仲にあった薩摩藩と長州藩の間を、坂本龍馬が
  とりもって同盟を結ばせたという話はあまりにも有名ですが
  なぜ薩摩と長州は手をとりあったのでしょうか。
   お互いの利害が一致したからというのが一番の理由です。
  当時薩摩藩は琉球藩との密貿易やイギリスとのつながり(薩
  英戦争後に仲良くなった)によって財政が潤っており、力が
  弱まっていた幕府からするとその影響力は脅威そのものでし
  た。そこで幕府は、長州討伐という名目で薩摩藩に長州藩を
  攻めるよう仕向けたのです。
   薩摩藩からすると、ここで長州藩と戦争を行えば、たくさ
  んの犠牲やお金がかかって国力が衰えるのは目に見えていま
  す。さらに当時の幕府には、雄藩否定論といって、力のある
  藩を目の敵にする風潮があったので、長州討伐の後に薩摩藩
  が標的とされるかもしれない、といった心配もありました。
  長州藩と戦争はしたくないけれども、幕府の命令に背いて長
  州藩との戦争を避ければ、幕府の裏切り者になってしまいま
  す。薩摩藩の中には「日本という国を外国の脅威から守るた
  めには、幕府を倒して新しい仕組みをつくるしかない」と倒
  幕を進める動きもありましたが、いくら国力があったとはい
  え、薩摩藩だけで倒幕を進めるような感じでもない。薩摩藩
  はそのような状況下にありました。 http://bit.ly/1ULkM0H
  ───────────────────────────

皇居外苑の楠木正成像.jpg
皇居外苑の楠木正成像
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(1) | 現代は陰謀論の時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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明治天皇は南朝の血筋に摩り替えられていたという説を読んで思ったこと
Excerpt: Electronic Journalには大分前(春夏秋冬で書いていた頃)に何度か訪問した事があったのだけれど 今年になって、久しぶりに訪問したとき、偶々同感したのでTBを送ったりコメントを入れたりし..
Weblog: Dendrodium
Tracked: 2016-01-16 13:04