2016年01月13日

●「田布施町人脈が今まで日本を支配」(EJ第4194号)

 ある特定の勢力が世界を支配するなどというと、現実味が乏し
い話になりますが、ひとつの政治勢力が一国を長い間にわたって
支配するということはよくあることです。実は日本もそういう国
家のひとつです。それも明治維新から現代にわたって支配が続い
ているといったら信ずることができますか。
 山口県の南東部に「田布施町」という町があります。室津半島
の付け根にあたる瀬戸内海沿岸から内陸に向かって町域が広がる
小さな町です。瀬戸内海に浮かぶ離島である馬島を町域に含むほ
か、内陸部には柳井市と岩国市に囲まれた飛び地(小行司地区)
が存在します。現在の人口は、2010年時点で、約1万6千人
です。もとは北朝鮮の被差別部落であったという説もあることを
記しておきます。
 なぜいきなり田布施町なのかというと、この町からの出身者が
凄いからです。伊藤博文、木戸幸一、宮本顕治、河上肇、難波八
助、松岡洋右(元外相)、安倍源基(終戦時の内務大臣)、賀屋
興宣などであり、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三は、この田布施町
出身者の末裔です。ちなみに、伊藤博文と岸信介の出身地を上げ
ておきます。
─────────────────────────────
     伊藤博文 ・・・  周防国熊毛郡束荷村
     岸 信介 ・・・ 山口県熊毛郡田布施町
─────────────────────────────
 伊藤博文から末裔の安倍晋三までを含めると、伊藤博文、岸信
介、佐藤栄作、安倍晋三の4人の総理を出しており、しかも現在
の安倍晋三首相は、2度目の総理就任です。こんな小さな町から
4人の総理が出るとは驚きです。
 明治維新後、田布施出身の多くの志士が明治政府の重要なポス
トに就くことになるのですが、その流れは意識して受け継がれ、
現在の安倍首相へと繋がっているのです。この明治維新から受け
継がれてきた一連の流れは、「田布施システム」という言葉で呼
ばれているそうです。これが本当であるとすると、この田布施一
族によって日本は乗っ取られている──こういっても過言ではな
いと思います。
 不思議なことはまだあるのです。実は鹿児島県にも熊毛郡があ
り、県南部には田布施町があったのです。現在の加世田市金峰町
のことです。ここも被差別部落だったといわれます。
 小泉純一郎元首相の父である純也は、鹿児島の田布施町の出身
であり、後に小泉家の婿養子になり、純一郎が生まれています。
小泉家は、母方の祖父である小泉又次郎は第2次若槻内閣で逓信
大臣を務め、若い頃に全身に入れ墨を彫っていたことから、“い
れずみ大臣”などの異名で知られる大衆政治家だったのです。そ
の鹿児島の田布施町出身の末裔の小泉純一郎も総理大臣になって
いるのです。これは驚くべきことです。
 これらの田布施関係者がなぜ明治維新において、強いリーダー
シップを持つことができたのでしょうか。この謎を探っていくと
ひとつのキーワードにぶつかります。そのキーワードとは、「明
治天皇」です。
 明治政府は、明治4年9月24日に、いま考えると驚くべきこ
とをやっています。それは「皇霊を宮中に遷祀する詔」を実行し
たことです。何をやったかというと、この詔によって宮中より仏
教色を一掃したことです。1400年以上の仏教の歴史を有する
皇室がこれを実施するのは驚天動地のことです。
 これによって、上古以来宮中に祀られていた仏堂・仏具・経典
など、また天皇・皇后の念持仏など一切を天皇家の菩提寺である
京都の泉涌寺に遷し、その代わりとして、神棚が宮中に置かれる
ようになったからです。
 これについて、このテーマを追求しているブログ「しばやんの
日々」は、そのとき、3人の皇族の女性が明治政府からの還俗の
強要を敢然と拒否したことを明らかにしたうえで、この出来事に
ついて次のように疑問を展開しています。
─────────────────────────────
 皇室で仏教は1400年以上の歴史があり、江戸時代までは皇
族は仏教徒であり仏教を保護してきたのだ。まして、明治天皇に
とっては先代の孝明天皇は実の父親である。若いとはいえ、明治
4年と言えば天皇は19歳だ。他にも皇族は沢山いたのに、そん
な簡単に信仰が捨てられることに不自然さを感じるのは私だけだ
ろうか。信仰の薄い私ですら、自分の先祖の墓を捨てて明日から
神棚を祀れというのは耐えられない。
 明治天皇や主要な皇族が抵抗すれば、いかなる策士といえども
このようなことは強行できなかったと思うのだが、皇族男性すべ
てが抵抗せずに廃仏を受容したとすれば、脅迫などがあって皇族
の誰もが抵抗できない環境に置かれていたか、主要な皇族全員が
神仏分離し仏教を捨てるべきだとの考え方でほぼ一致していたか
のいずれかしか考えられないのではないか。直感的には前者の可
能性が高いだろう。          http://bit.ly/1kZiXRD
─────────────────────────────
 これは「廃仏毀釈」というのです。廃仏毀釈とは、仏教寺院・
仏像・経巻を破毀し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を
廃することを指します。「廃仏」は仏を破壊し、「毀釈」は釈迦
(釈尊)の教えを壊すという意味です。日本においては一般に神
仏習合を廃して、神仏分離を押し進める明治維新後に発生した一
連の動きのことです。
 これを追及していくと、出てくるのは「明治天皇すり替え説」
なのです。つまり、明治天皇は孝明天皇の実子ではないというこ
とです。ここに「孝明天皇謀殺説」もからんできます。ここまで
くると、まさに陰謀論そのものです。
 実はこの「明治天皇すり替え説」は、あの田布施町人脈と密接
な関係があるのです。田布施町人脈には多くの謎が残されている
のです。これについては、明日のEJで解明することにします。
            ──[現代は陰謀論の時代/007]

≪画像および関連情報≫
 ●廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた理由/「しばやんの日々」
  ───────────────────────────
   廃仏毀釈のためにわが国の寺院が半分以下になり、国宝級
  の建物や仏像の多数が破壊されたり売却されたりしたのだが
  このような明治政府にとって都合の悪い史実は教科書や通史
  などで記載されることがないので、私も長い間ほとんど何も
  知らなかった。
   梅原猛氏は「明治の廃仏毀釈が無ければ現在の国宝といわ
  れるものは優に3倍はあっただろう」と述べておられるよう
  だが、ではなぜ明治初期に廃仏毀釈がおこり、数多くの文化
  財を失うことになったのか。
   標準的な教科書である『もういちど読む 山川日本史』に
  は、明治政府は「はじめ天皇中心の中央集権国家をつくるた
  めに神道による国民教化をはかろうとし、神仏分離令を発し
  て神道を保護した。そのため一時全国にわたって廃仏毀釈の
  嵐が吹き荒れた」と簡単に書いてあるだけだ。
   「廃仏毀釈の嵐」などというわけのわからない言葉を使っ
  て誤魔化しているが、このような文化財の破壊行為が犯罪に
  もならず取締りもされなかったことはなぜなのか。
   また以前このブログで兵庫県丹波市柏原町にある柏原八幡
  神社にも三重塔が残されていることを書いたが、このように
  神社の境内に仏塔が残されているケースはわずかだけで、数
  多くの塔がこの時期に破壊されてしまっている。添付の画像
  は、昨年撮った柏原八幡神社の三重塔であるが、このような
  神仏習合の景色が、廃仏毀釈で破壊される以前には、全国各
  地にあたりまえのように存在したはずなのだ。
                   http://bit.ly/1P1VcA9
  ───────────────────────────

柏原八幡神社の三重塔.jpg
柏原八幡神社の三重塔 
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 現代は陰謀論の時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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